saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第九章 「 浄土楽園 」 (04)

(… ディーパンカラは、ゴータマの足に触れたとき

ただ、これはゲームにすぎない、 と 言おうとしていた )

おまえが私の足に触れようと、私がおまえの足に触れようと

それは なんのちがいもない

われわれは みな光明を得ている

われわれは みな神々なのだ

私は 神で おまえは神ではない、というのではない

すべてが 神性だ

樹々は 神々だ

動物も  そうだ

あらゆるものが そうだ 

岩でさえも !

 

岩のなかでは、神は 深く眠っている

樹のなかでは、神は ほんの少し目覚めている

動物のなかでは、もう少し目覚めている

おまえのなかでは、 もっと目覚めている

ブッダのなかでは、完全に 目覚めきっている

だが、そのちがいは 質的なものではない

そのちがいは、ただ量的なものだ

そして もしここまで 気づけば、おまえは そこまで 気づくこともできる

 

 仏陀は 言う

“世尊は問われた

「どう思うか スブーティよ

 如来がディーパンカラから学んだ法が

 何かあるだろうか ?」”

 

彼は「私は ディーパンカラから何か 学んだだろうか ?」と 訊ねている

学ぶべきものなど 何もない

真理は 与えられた事実だ

あなたが学ぶものは なんであれ 偽りだ

真理は 学ばれる必要はない

真理は 発明されるべきものではなく、ただ 発見されるべきものだ

もっと正しく言えば、 それは ただ再発見されさえすればいい

 

そして「学ぶ」という言葉は 危険だ

学ぶということは、情報、知識をたくわえる ということだ

情報を ためればためるほど、あなたの現実は いっそう無意識のなかへ深く 行く

あなたは 重荷を負い、頭でっかちに なりすぎる

あなたの頭は 知識で騒ぎ立てはじめ、非常に騒々しくなる

そうなったら、あなたは ハートのなかの 静かな細い声を 聴くことが できなくなる

その静けさは 知識という騒音に 消される

 

だから、罪人でさえ達成するのに、学者は 取り逃がす

罪人は 謙虚になりうるが、 学者は 謙虚になりえない からだ

罪人は 泣き叫ぶことができる

しかし学者は 知る

彼は自分の知識に こちこちだ

彼は自分の知識に エゴイスティックだ

彼は かたくて、溶けることが できない

彼は 開いていない、彼は 閉じている

彼の 窓や扉は すべて、彼がためた 知識や聖典で ふさがれている

 

真理に達する ということは

学ぶ というより、むしろ学んだことを忘れる ということだ

あなたは 自分が知ったこと 忘れなければならない

それは「成ること」ではなく「成らぬこと」だ

それは「学ぶこと」ではなく「忘れること」だ

忘れることが 道だ

もし 成らぬことができたら、あなたは 成らぬことが できるようになる

もし 忘れることが できたら

完全に、無条件に、どんな執着もなく、全知識を 落とすことができたら

あなたは 純真無垢に なる

そしてその純真さが あなたを〈家〉へ 帰らせる

 

 “スブーティは答えた

「いいえ ありません

 おお 世尊よ

 何もありません」”

 

マスターと 弟子の あいだに、何が 伝えられるのだろう ? 

真理 ではない

知識 ではない

では 何が 伝えられるのだろう ?

 

実際のところ、何も 伝えられない

マスターの 臨在のもとで、何かが弟子の 最も深い中核のなかで湧き上がる

それは 伝えられるのではない

マスターから 弟子へは 何も 移らない

まったく 何も だ

マスターの臨在、マスターの臨在そのもの ーーー

そして内側に深くあった何かが 表に出はじめる

マスターの臨在が 弟子の存在を呼び出す

何かが 与えられたり、伝えられたりするのではない

ただマスターの臨在そのものが 触媒の働きをして、弟子が 変わりはじめるのだ

 

 

(04)終わり・・・(05)へ 続く