saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第三章 「 ダンマの車輪 」 (06)

(…それゆえに仏陀は この不思議な言葉を 言う
「よく、注意深く聴きなさい」)

そして、私が あなた方に これらの言葉を説明するのは これが初めてだ
二十五世紀の あいだ、誰ひとり これらの言葉を 真に注釈した者はいない
これは ふつうに受け取られてきた
仏陀が 誰にでも「よく、注意深く聴きなさい」と 言っているかのようにーーー

仏陀は ふつうの人間に 語りかけているのではない


二十五世紀のあいだ、誰も正しく説明した者はいなかった
人々は 自分がこの言葉の意味を わかっていると思いつづけてきた
言葉の意味は 変わるものだ
それは、それらが誰によって使われ、誰のために使われるか に かかっている
言葉の意味は 文脈と状況しだいなのだ
言葉は それだけでは なんの意味もない
言葉は 無意味だ
意味は、ある 特定の状況のなかで はじめて生まれる


さて、この状況は たぐいまれだ
仏陀は 何千回となく これらの言葉を 使ってきた
毎日、彼はこれらの言葉を 人々に使わなければならなかった
「よく 注意深く 聴きなさい」

だから『金剛般若経 ダイヤモンド・スートラ』を注釈してきた人たちは 見のがしてしまった
私は その注釈者たちは「知る者」たちではなかったと思う
彼らは 言葉は知っていたが、この不思議な状況には まったく気づいていなかったのだ


仏陀は ふつうの人間に 語りかけていたのではない

仏陀が語りかけていたのは、ブッダフッドに きわめて近い者
まさに その瀬戸際にいて、ブッダフッドに 入らんとしている者だった


そして、彼は この言葉を「それゆえに」という言葉で 始めている



“ それゆえに スブーティよ
よく 注意深く聴きなさい ”


さて、この「それゆえに」も 非常に 非論理的だ
「それゆえに」が 論理的なのは
それが三段論法の 一部、結論部として来るときだけだ

人は すべて死ぬ
ソクラテスは 人だ
それゆえに、ソクラテスは 死を免れない

ーーーこの場合「それゆえに」は まったく正しい
それは 三段論法の 一部、結論の 一部だ

しかし、ここでは なんの論理もない
何も それに先立っては いない
なんの前提もない
そして仏陀は「それゆえに」という結論から 始めている


それも不思議なところだ

そして それが仏陀のやり方だ
それが『般若心経』のなかでも 彼が シャーリプトラに呼びかけた やり方だ
「それゆえに、シャーリプトラよ」

今度は
「それゆえに、スブーティよ」と言う

スブーティは「それゆえに」を必要とするようなことは 何も言っていない
仏陀は「それゆえに」を必要とするようなことは 何も言っていない
だが、スブーティの存在のなかには 何かが現前している
「それゆえに」は その現前 (プレゼンス)に かかわっている
何も 述べられてはいない


マスターは あなたのなかに現前するものに 対応する
マスターは あなたの言葉よりも あなたの沈黙に 対応する
マスターは あなたの質問よりも あなたの探求に 関心がある
マスターは あなたの質問よりも あなたの必要とするものに 関心がある
この「それゆえに」は スブーティの内奥の存在のなかにある微妙な必要を指し示している

おそらくスブーティ自身は それに気づいていないだろう
おそらくスブーティが それに気づくには ちょっと時間がかかるだろう


マスターは弟子の存在のなかを 見つめつづけなければならない
マスターは その内なる必要性に 対応しなければならない
外に現われているか、現われていないか、それは要点ではない
独りで放っておかれたら
おそらく、弟子が 自分の必要とするものを発見するには 何か月もかかるだろう
あるいは何年も、あるいは 何生さえもーーー

しかし、マスターは あなたの過去や現在だけではなく 未来をも見つめている
あなたの必要が 明日は どうなるか
そして あさって、今世、来世は ーーー ?

マスターは その旅のすべてに備える
この「それゆえに」は スブーティの 内なる存在の 何らかの必要に関わっている



(06)終わり・・・(07)へ 続く