saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第六章 「ボーディサットヴァフッド」(最初の質問) (03)

(…それが時期であるあいだに、見ることのできるものは 何でも 見ることだ
まさに その見ることが あなたを それから解放する
そして ある日 その果実は熟して 落ちる )

熟した果実が落ちるとき、樹は 重荷を おろす
そのように 重荷をおろしたとき、あなたは 何をするだろう ?

エネルギーは まだそこにある、いままで以上に ある
それは、以前は多くのことに かかわっていたが、いまや まったく巻き込まれていないからだ
くつろいでいる・・・

あなたは エネルギーの貯水池になる
このエネルギーは あなたから 溢れはじめる
ただ わけもなく・・・


ボーディサットヴァは
あまりに多くを 持つがゆえに
それを 与える必要のある 者だ
あまりに多くを 持つがゆえに
あなたが 彼の その愛、彼の その存在、彼の その〈光明〉を受け取ると 感謝する 者だ
彼は 芳香に満ちた花に 似ている
その芳香は 風に解き放たれたい
あるいは、彼は 雨水で一杯の 雲のようなもの・・・

それを歓迎し、それを吸収してくれる 渇いた大地を 求めている
ボーディサットヴァも そうだ
雨水で一杯の 雲・・・

渇いた魂を求め、飲んで 迎えてくれる誰かを求めて、四方八方ヘ 動いている

ボーディサットヴァは あなたが 彼の贈り物を受けとるとき あなたに 感謝する


ボーディサットヴァフッド(菩薩の境地)は 意識の ひとつの状態だ

それはたしかに「ナンセンス」だ
それはたしかに も の ではない、ソメンドラ
だが、 それは 起こる
それは 非常に 非論理的だ
それは非論理的で、ばかげてみえる
それはまだ あなたの体験に 関係ないからだ

しかし まもなく、あなた方の 多くが その境地に入る

あなた方の多くが まさにその瀬戸際に立っているのが、私には 見える

あなた方には 見えない

あなた方が 瀬戸際にいて、究極の飛躍をする用意があるのが、私には 見える

それが起こったとき、あなた方は 仏陀の語っていることが 何かを知る


『ダイヤモンド・スートラ』は ふつうの人に 説かれているのではない
それは サニヤシンたちにだけ 説かれている
ボーディサットヴァフッドに達しつつある者や すでに達した者たちにだけ説かれている
実際のところ
それは 人がボーディサットヴァフッドに達する前に 説かれなければならない

なぜなら そのボーディサットヴァフッドの 瞬間がきたとき

もし 何をしたらいいのか 全然わからなかったら

もし 重荷を降ろすすべがあることに 気づいていなかったら

自分の至福を放つことが できることに
それを かかえている必要はないことに 気づいていなかったら

もし それについて 何も知らなかったら

それは あなたにとって 困難に、とても困難に なる

あなたの至福そのものが 胸(ハート)の苦しみに変わり、胸(ハート)の 痛みになる
ダンスや歌になるより むしろ それは 苦痛に満ちたものになる

知っているだろうか
至福が あまり強烈になると、それは苦痛になる
光が あまり強烈になると、それは まぶしすぎて、あなたは 盲に なりそうになる
愛が 過剰であるとき、あなたは それに 耐えられない
喜びが 過剰であるとき、あなたの心臓は 止まりかねない
それは 大きな 苦痛になりかねない



(03)終わり・・・(04)ヘ 続く