saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第四章 「〈彼方〉から 」 第三の質問 (01)

第三の質問
「あなたは 人々について『彼らは また見のがした』とか『彼らは むなしく生きてしまった』とか言われることがあります。 それは、見のがしたり到達されたりしうる目的や地点が あるかのようにきこえます。 同時に またあなたは『目的は ない、すべては ただ 在る』とも言われます。 だとしたら、 どうやって 見のがすことができましょう ? 」



ディネッシュ、 あなたは また 見のがした
「どうやって」と 訊ねた瞬間、あなたは 見のがす


実現されるべき ではなく、ただ認識されるべき 要点がある

それに対して「どうやって」は ない

それは すでに そこにあるからだ
あなたは ただ 見なければならない
あなたは ただ見ることができるように 静かな空間のなかに いさえすればいい
あなたは ただ、何もせず、どこへも行かず
物事を 改善しようとしない、くつろいだ瞬間のなかに いなければならない
その休止、そのくつろぎの なかで、それは そこに ある
それは 気づくことだ
実現ではなく 認識することだ
なぜなら 奥深いところでは あ な た は す で に そ れ だ からだ
あなたは ずっと それでありつづけてきた


「どうやって」と 訊ねたら、あなたは また見のがす
「どうやって」は それについて 何か なされなければならないことを 意味するからだ

どんな方法も いらない
どんな道も いらない
どんな技法 (テクニック)も いらない
すべての技法、すべての道、すべての方法が 落とされなければ ならない

内なる静かな細い声を 聴けるように、あなたは完全な沈黙の状態に いるべきだ

それは ずっと そこにあった
だがあなたは 欲望であまりにも騒々しいので、自分自身の音楽を 聴くことができない


「どうやって」と 訊ねないことだ
「どうやって」と 訊ねることで ためてきた方法を すべて落としなさい
静かな空間のなかへ 入りなさい
それは 技法ではなく、 こ つ だ



(01)終わり・・・(02)へ 続く