saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第10章 「 完全な〈空〉」 第二の質問 (05)

(… ジャイナ教や 仏教では、祈りのようなものはない

そういう言葉は 耳にしたことがない

彼らは ただ瞑想しか 知らない

キリスト教は 少しも瞑想を知らない

これは 偶然のことではない

これは 創始者たちに関する何かを 示している )

 

私は あなた方に 全体的(トータル)な 宗教を与えている

両方を許す宗教だ

他者に疲れているときには、瞑想の方へ 動きなさい

瞑想の方へ スウィングしなさい

独りであることに 飽きているときには、愛の方へ スウィングしなさい

両方とも いい

両方は 矛盾している

が、矛盾を通してこそ 大いなる喜びが 湧き上がる

もし 一方しか もっていなければ、あなたは そういう種類の豊かさを 味わうことはない

一方は あなたに 静寂を与えることができる

あるいは 喜びを 与えることができる

だが、両方は あなたに 無限に貴重な何か、比較できない何かを 与えることができる

両方 一緒になると、それは あなたに静かな歓喜、安らかな喜びを 与えることができる

内奥の核心では、あなたは 完全に静かに黙したままでいる

そして 周辺では、踊りだ

沈黙が踊り、沈黙が歌うとき

それは 最も豊かなるもの、絶頂のなかの絶頂だ

それゆえに、私は 両方を 主張する

 

ジョージ・バーナード・ショー

あるとき パーティに出て、部屋の隅に 独りで坐っていた

女主人が 彼のところへやってきて、心配して 訊ねた

「ご自分を 楽しんでいらっしゃらないの ?」

ショーは 答えた

「私が楽しんでいるのは、その 自分自身だけさ」

彼は 大いなる真実を 見つけた

そこには 大いなる洞察が ある

自分自身こそ、誰でも 楽しめる 唯一のものだ

生は 沈黙という質を 帯びはじめる

しかし、自分だけを楽しんで まったく他者を楽しむことが できないなら

そのときには、 あなたは 他者の次元を 見のがす

人は 自分自身も 他者も 両方楽しむ力を 身につけなければならない

それが、 私が 全体的 (トータル) な人間、神聖な人間と 呼ぶものだ

 

 

第二の質問(05)終わり・・・第三の質問(01)ヘ 続く