saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第四章 「〈彼方〉から 」 第二の質問 (02)

(…彼は 古の スーフィの諺を言った
「 生は 完全なり
万物は 完全なり
万人は 完全なり 」)

ある せむしの人が 聞いていた

彼は 立ち上がると、言った
「私を ごらん
私は 生が完全でないことの証拠だ
私を ごらん
生は完全だという あなたの考えを 反証するのにじゅうぶんではないか ?
私を見るがいい、なんと醜いんだろう !
なんと大きな困難を かかえているのだろう !
私は せむしだ 」

そのスーフィは 目を向けると、言った
「だが、あなたは わたしがこれまで見たなかで 一番完全な せむしですよ」


一番 完全なせむし・・・

ひとたび 生を あるがままに 見はじめたら

それが いかにあるべきか という観念をもたなかったら

あらゆるものが 完全だ

不完全でさえ 完全だ

私が「生は完全だ」と 言うとき
私が 何を意味しているかは 簡単なことだ
生に あなたの理想を 持ち込むな ということだ

さもなければ あなたは 生を 不完全にする
ひとたび 理想を 持ちこむと、あなたは 不完全性を創り出しているからだ


もしあなたが 人間は 七フィートの身長で あるべきだ と 言い
人間が 実際には そうでなかったら、困難が起こる

あるいは 人間の身長は 四フィートでなければならない という考えをもっていて
実際には そうでなかったら、それは やっかいなことになる

生は たんに 在 る
身長が 七フィートある人もいれば、四フィートの人もいる
ある樹は 雲にまで 伸び、別の樹は 小さなままに とどまる
しかし すべては 完全に良い
すべては 在るべきように在る
なぜなら 私の心(マインド)の なかには いかなる「べき」も ないからだ
私はただ あるがままに生を聴き、生を見る
私は それがいかにあるべきか という観念は いっさい もたない
だから 私は言う
それは在るべきように在る、ほかの生など ありはしない、と


メッセージは、比較するのを落とすこと、判断するのを落とすことだ

さもなければ あなたは 惨めなままだ
そしてそれは ただ あなたの判断や比較のせいだ
裁き手であらずして 生を 見つめなさい

裁くとは あなたは 何さまか ?
あなたは 生について 何を知っている ?
自分自身についてさえ 何を知っている ?

裁くとは あなたは何さまか ?

判断は、自分は 知っている という観念から来る
判断は 知ったかぶりだ


知らない状態で、無知の状態を通して、生を 見つめてごらん
驚異の念を通して、生を 見つめてごらん
そうすれば 突然、すべてが 完全になる

曇のときも ある
だが それは 完全だ

晴れのときも ある
それも 完全だ

雨のときも 雨でないときもある

だが それも 完全だ

それは あるがままで祝福だ

この祝福に同調することこそが「 祈りに 満ちている 」ことだ




第二の質問(02)終わり・・・第三の質問へ 続く