saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第一章 「涅槃(ニルヴァーナ)の境地」 (06)

(…仏陀は サムマサマーディは 単独性(アロンネス)だという
正しい瞑想は 全体とひとつになるほどに完全に 独りになるものだ )

それを説明させてほしい
もしあなたが 空っぽであれば、あなたの境界線は 消える
なぜなら 空(くう)は 境界線を 持ちえないからだ
空は 無限でしか ありえない
空には どんな重さも ありえない
空は どんな色も 持てない
空は どんな名前も 持てない
空は どんな形も 持てない
あなたが空であるとき、どうやって 自分と他者を 区別する ?

なぜなら、あなたは どんな色も 持っていない
あなたは どんな名前も 持っていない
あなたは どんな形も 持っていない
あなたは どんな境界線も 持っていない
そのあなたが どうやって何かの区別をつける ?

空であるとき あなたは 全体と一体になっている
あなたは存在全体のなかへ 融け去り、存在全体は あなたと融け合っている

あなたは もう孤島ではない
存在という広大な大陸に なっている


仏陀の全メッセージは この一語に凝縮される
ーーーサムマサマーディ (正しい瞑想)だ
正しい瞑想とは 何か ?
誤った瞑想とは 何か ?

もし 瞑想者が 存在したら、それは 誤った瞑想だ

もし 瞑想者が 瞑想のなかに失われたら、それは正しい瞑想だ

正しい瞑想は あなたを 空と単独へ いざなう

この経典ーーーこの経典全体が、いかにして完全に 空(くう)になるかに 関わっている
これは、世界に対する 彼の基本的な贈り物だ


“ あるとき このように私は聞いた ”


これらの経典は 仏陀の偉大な弟子 アーナンダによって記憶されていた
そして 忘れてはならないことが ひとつある
経典はすべて「このように私は聞いた」という言葉で 始まっていることだ

仏陀が亡くなったとき、全弟子が 一堂に会して
仏陀が四十五年間 語ったことは 何であれ まとめた
アーナンダは その四十五年間 ずっと仏陀と共に生きてきた 唯一の人だった

彼は 頼みとなる 最上の典拠だった

他の者たちも 聞いてはいたが、それは別の人たちを介して 聞いたものだった
彼らは仏陀と 共にいたときもあるが、いなかったこともある
ただ アーナンダだけが、影のように寄り添って生きてきた


だからアーナンダが 述べている
だが、彼のすばらしさは けっして「仏陀が これを言った」とは 言わないことだ
彼は ただ「このように私は聞いた」と いうだけだ
その ちがいは 大きい
彼は「仏陀が これを語った」とは 言わない
なぜなら 彼は言う
「どうして私が 仏陀の説かれたことを話せましょう
私に言えることは ただ『これが私の聞いたことだ』ということだけです
仏陀が何を 説いたか、それを知っているのは 彼だけです
仏陀が 何を言おうとしたのか、それを知っているのは 彼だけです
私が想い出せるのは ただ私が聞いたことだけです
私の能力は 限られています
彼は 何か ほかのことを言おうとしていたのかもしれません
私も言葉を 少々忘れたかもしれませんし
自分の言葉を 少々付け足したかもしれません」


これは 大きな誠実さだ
彼は こう言い張ることも できた
「これは仏陀の説いたことです
私はその場に いました、私は 目撃証人です」

実際、彼は 目撃証人だった
誰も それを否定することはできない
だが、この男の 謙虚さを 見るがいい

彼は言う
「このように私は 聞きました
仏陀は語り、私は聞いていました
私にできるのは 自分の聞いたことを述べることだけです
それは正しいかもしれませんし、正しくないかもしれません
私は 口出しをしてしまっているかもしれません
私は 解釈しているかもしれません
幾つかのことを忘れ、自分の心(マインド)の 何かが 入っているかもしれません
そういうことはすべてありうることです
私は 光明を得た人間ではありません」

アーナンダは まだ光明を得てはいなかった
だから彼は言う
「私が言えることは これだけです
私が請け合えることは これだけです」


“ あるとき このように私は聞いた
世尊はシュラーヴァスティーに住んでおられた
朝早く 世尊は衣をまとい
長衣をつけ 鉢を手にすると
施しを集めるために
大いなるシュラーヴァスティーの都へ入って行かれた

食事が終わり 行乞から帰ると
世尊は衣鉢を収め 両足を洗い
設けられた座に坐り
両足を組み
体を真直ぐに伸ばし
心して前面に注意を据えられた ”


これに あなたは驚くだろう
アーナンダが 言うとき、
彼は 微に入り細にわたっている

誰にもわからない
ブッダについて 報告するときには 非常に注意深くあるべきだ
これだけのことでさえ 彼は 何度も何度も報告している
これだけ細かなことでさえーーー

“ 朝早く 世尊は衣をまとい
長衣をつけ 鉢を手にすると
施しを集めるために
大いなるシュラーヴァスティーの都へ入って行かれた ”


アーナンダは 影のように彼のあとに従っている
ただ 彼を見まもる 静かな影のようにーーー

ただ彼を見まもるだけで ひとつの祝福だった
アーナンダは あらゆることを 見まもる


“ 食事が終わり 行乞から帰ると
世尊は衣鉢を収め 両足を洗い
設けられた座に坐り・・・”


初めて 仏教経典が 西洋語に訳されたとき、訳者たちは少々とまどった
この たえまない繰り返しは なぜだろう ?

これは ずっと このように続いてゆく
再びこれがある、再びこの繰り返し・・・

なぜこのように細かなことが 述べられるのだろう ?

彼らには それがわからなかった
彼らは 考えた
「これは繰り返しだ、まったく不要な繰り返しだ
これは まったく 必要ではない」
いったいどこに その要点が あるのか ?

だが彼らは 見のがした
アーナンダが 言っているのは
仏陀は 大事と同じほどに 小事にも 注意を払うということだ
ブッダにとっては 小さな物事や 大きな物事と いうものはない
あるのは ただひとつ だけだ

鉢を 手にするとき
彼は、どんな神に対して敬意をいだくのと 同じほどに その鉢に 敬意をいだく
長衣や 衣服をまとうとき、彼は 非常に注意深い
彼は まったく油断せずに 気を配っている
彼は 機械的ではない

あなたが 衣服を着るときは 機械的
あなたはその着方を 機械的に 知っている
だから それに注意を払って 何になる ?

あなたのマインドは 四方八方に向かって 動きつづける

あなたは シャワーを 浴びる
だがあなたは そのシャワーに少しも 敬意をいだかない
あなたは そこ には いない
あなたは どこか 別のところにいる

あなたは 食事をする
だがあなたは 食べ物に 敬意がない
あなたは そこ に いない
ただ自分の中へ 食べ物を 詰め込みつづけているだけーーー

あなたは 自分の物事を 習慣的、機械的に行ないつづける
仏陀が 物事を行なうとき、彼は 完全に そこ にいる
ほかの どこにもいない



(06)終わり・・・(07)へ 続く