saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第7話 ーーー 〈無〉に 帰依する (11)

…( 貧乏であることは 精神性 (spirituality) とは 何の関係もない
そしてまた 金持ちであることも 精神性とは 縁もゆかりもない )

そういうものは 無関係な事実にすぎない
貧乏人も 金持ちと同じだけ 外側を見る
たぶん貧乏人は 牛車しか持っていず
金持ちは キャデラックを 持っているかもしれない

だがそんなことは問題じゃない
牛車はキャデラックと 同じだけ 外側のものだ
両方とも 外側を見ている

金持ちは 銀行口座をたくさん 持っているかもしれない
そして貧乏人は ちっぽけな財布しか 持っていないかもしれない
あるいは ちょっぴりの貯えしか 持っていないかもしれない
だがそれは 問題じゃない
両方とも 外側を 見ているのだ


安全は 内なる道の上に ある

なぜならば
それでこそ,あなたは 死ぬような者が誰もいないのを
苦しむような者が 誰もいないのを
何ひとつ 起こることなど あり得ないのを
そこには 純粋な空(そら)しかないのを 知るに至るからだ
雲は 去来し,空はとどまる
さまざまな生命が 去来する
さまざまな形が 去来する
が,〈無〉は とどまる


この〈無〉は すでに そこに あるものだ
だからこそ仏陀は言う
それはあなたが,それ が 達成し得るものではないことを 理解したとき はじめて達成され得るものなのだ,と
それはあなたが,それ がすでに そこにある
それは もうすでに 実 状 なのだ,という基本的な事実を 理解したときに はじめて達せられ得るのだ


そこにある この〈 空 (くう) 〉は
どんな形であれ
発展させられたり 発達させられたりするようなものじゃない
それは 完全に そこにある

それゆえにこそ,それは 一瞬のうちに 達せられ得るのだ

仏陀は それを “満ち満ちた空 full emptiness” と 呼ぶ
なぜならば〈空〉というものは
もしそれが そこにあるとすれば 満ちているしかないからだ

もしそれが 満ちていないとしたら

それは 空以外の 何かが そこにあるという意味になる
そして,その ほ か の 何 か は 妨害し,邪魔をするだろう
そして,その ほ か の 何 か が 二元対立をつくり出すだろう
そして,その ほ か の 何 か は 摩擦を つくり出すだろう
そして,その ほ か の 何 か は 緊張を つくり出すだろう
そして,その ほ か の 何 か は 不安を生み出すだろう

あなたは ほ か の 何 か が あっては 安心することができない


〈空〉は,それが 満ちているとき
一切の邪魔者が 落とされたとき
あなたが 内側に 何ひとつ持っていないとき

そこに それを観察する者など 誰もいないとき はじめて そこにある

仏陀は「この空は 体験ですらない」と 言う

なぜならば,もし あなたが それを 体験する としたら
それは それ を 体験するあなた がいる という意味だからだ
それは あ な た なのだ
であれば,あなたが それを体験することはできない
あなたが体験できるのは 何か あなたでないものに限る

〈体験〉とは 二元対立を意味する
観察する者と 観察されるもの
知る者と 知られるもの
主体と 客体
見る者と 見られるもの ーーー

だが,そこには〈空〉しかない

それを見る 何者もなく,見られる 何ものも なく
何の 客体も なく
何の 主体も ない

この非二元的な〈空〉は 満 ち て い る
それは完全に 満ちている
その豊満性は それ以上 洗練され得ない
その豊満性は 手の 加えようがない
そこに 何もないからには
何ひとつ そこから 取り去られることも あり得ない
そして,それには 何ひとつ 加えられることもない
それは 完全に 充実している


“ 満ち満ちた空 ” というのは 体験じゃない
なぜならば,そこには 何の体験者も いないからだ

それだからこそ
仏陀は “精神性” というのは ひとつの体験ではない と言う
〈神〉は 体験され得ない

「自分は神を体験した」などと言う者たちは
自分が 何を言っているのか わかっていない か
あるいは,ごくごく不適当な 言語を使っているのだ

あなたは神を 体験することなど できるものじゃない
その体験の中では
あ な た など 見つからないのだ




(11)終わり・・・(12)へ 続く