saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第7話 ーーー 〈無〉に 帰依する (12)

…( 「自分は神を体験した」などと言う者たちは
自分が 何を言っているのか わかっていない か
あるいは,ごくごく不適当な 言語を使っているのだ

あなたは神を 体験することなど できるものじゃない
その体験の中では
あ な た など 見つからないのだ )

その 体験はそこにある
だが,体験者は そこにない

だとしたら
それは ひとつの体験として ひけらかすことなど できないのだ

そこで,いつであれ 誰かが仏陀
「あなたは神を 体験されましたか ? 」と 聞くと
必ず 彼は 沈黙を守る
彼は ひと言として しゃべらない
彼は 即座に 話題を変える
彼は 何かほかのことについて 話しはじめる


いつであれ それが聞かれたときには
生涯にわたって 彼は 沈黙にとどまった
たくさんの人たちが
彼は 神を体験したことがないのだ
だから沈黙を守るのだ,と 思った

だが,彼こそ
消極的にも 積極的にも
何ひとつ しゃべっていない 唯一の人物なのだ

そして,それは彼が 体験していないからじゃない
彼は 体験した
だが,それは ひとつの体験として語られることなど できないもの なのだ
彼が 沈黙を守るのは そのためなのだ

ポンティウス・ピラトゥスが「真実とは何か ?」と 尋ねたとき
エスが沈黙にとどまったのは そのためなのだ


J.クリシュナムルティは こう言い続けてやまない

彼は “体験(experience)” と “体験すること(experiencing)” との間に 非常に微妙な区別をつける

そして,それは見事な 区別のしかただ
彼は言う
「それはひとつの “体験すること” であって “体験” ではない」と
それは ひとつのプロセスなのだ
“物” じゃない
それは 生きている
死んではいない
それは 進行中だ
終わってはいない
あなたが 神の中に はいり込む ーーー

そうしたとき
それは ひとつの進行形の現象なのだ
それは どこまでも どこまでも どこまでも 永遠に続いてゆく
あなたは けっして そこから出ては来ない
それは ひとつの “体験すること”
川の ような
花が 開いて開いて開いて 開き続けてゆくような
生きたプロセスなのだ
そしてそれには けっして どんな終わりも来ない


神を体験した などと言うことは
馬鹿げていて,安っぽくて,愚かしい

モクシャ (moksha 解脱)を,ニルヴァーナ(涅槃)を
〈真実〉を体験した などと言うことに 大した意味はない
なぜならば
それらは 達成という範疇に 入れられるようなもの ではないからだ


そこで 仏陀は言う
“それゆえに,おおシャーリプトラよ・・・
彼の無達成のたまものである”

心(マインド)が ひとつの終点に来て
もう それ以上何ものを達成することにも 興味がなくなったとき
そのときに,それは ブッダフッドを達成する



(12)終わり・・・(13)へ 続く