saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第5話 ーーー 〈無〉の香り (01)

般若心経

“ それゆえに,おおシャーリープトラよ,空(くう)において,そこには いかなる形象もなく,感覚もなく,知覚もなく,衝動もなく,意識もない。
眼も,耳も,鼻も,舌も,体も 心もない。
形もなく,音もなく,匂いもなく,味もなく,触れられるものも,心の対象もない。
視覚組織の領域から 心意識の領域に至るまでことごとく何もない。
そこにはいかなる無知もなければ 無知の消滅もなく,衰弱や死から,衰弱や死の消滅に至るまでことごとく何もない。
そこにはいかなる苦しみも,苦しみの原因も,苦しみの停止も,苦しみをなくす道もない。
いかなる認識もなければ,いかなる達成も無達成もない。”




〈無〉は 彼方(かなた)なるものの 香りだ
それは〈超越的なるもの〉に対する ハートの開放に ほかならない
それは 一千枚の花びらを持った ハスの展開だ
それは 人間に与えられた〈天命〉だ

人間は
この香りに たどり着いて
彼の実存の内側の この絶対の無にたどり着いて はじめて
この無が 彼の一面に広がって はじめて
雲ひとつない ただの純粋な空(そら)になって はじめて完全だと言える
この〈無〉こそ 仏陀ニルヴァーナと 呼ぶところのものだ

まず我々は
この無というのが 実際に 何であるのかを理解しなければならない
というのも,それは ただ 空っぽなのではないからだ
それは 満ち満ちている
それは あふれ出している
一瞬たりとも,無というのが
ネガティブ(消極的)な状態だ,不在であることだ,などと 考えてはならない
そうじゃない

〈無 nothingness〉とは
純然たる〈何も無いこと no-thingness〉なのだ
物事(things)が 消え失せる
ただ究極的な実体だけが 残る
さまざまな形は 消え失せ
ただ無形なるもの だけが残る
さまざまな限定が 消え失せ
限定されざるものが 残る


つまり 無とは
あたかも そこに何もないかのごときものじゃない

それは ただ単に
そこに何があるのかを 限定する可能性が何もない ということを意味するだけだ

誰かが やって来て
「なんだ ここには何もない」と 言うようなものだ
彼は 前に 家具が ここにあったのを見ている
今日は その家具が 見あたらない
そこで彼は
「ここには もう何もないじゃないか
空っぽだ」と言う
彼の声明は ある一定限度のところまでしか当たっていない
実際には,家具を運び出すということは
単に 家の空間の中にある 邪魔物をどける ということにすぎない
いまや 純粋な空間が 存在する
いまや 何ひとつ 邪魔をしない
いまや 空をさまよう ひとつの雲もない
それは ただの 空だ
それは 何もないんじゃない
それは 純粋性なのだ
それは ただ不在なんじゃない
それは ひとつの〈現存〉なのだ


一度でもいい
完全に空っぽな家に はいったことがあるだろうか ?
だとしたら,その空っぽさは
ひとつの〈現存〉のようなものであるのが わかるだろう
それはとても 実体的だ
ほとんど 手を触れることができる

それが 寺院の美しさだ
あるいは 教会でもいい
モスクでもいい
純粋な 無
ただの 空洞ーーー

あなたが 寺院に足を踏み入れるとき
あなたを取り巻くものは〈無〉だ
それは何ひとつない空っぽだ
が,ただ空っぽなんじゃない
その空っぽさの中には 何かが 現 存 している
ただし,それを 感じることのできる者
それを 感じるだけの感受性を持った者
それを見て取るだけ醒めた者に取ってのみの現存なのだ


物しか見ることのできない人たちは
「なあーんだ,何も ないじゃないか」と 言うだろう

無を見ることのできる人たちは
「一切が ここにある
なぜなら,ここには 無があるからだ」と 言うだろう


“Yes” と “No” の正体こそ〈無〉の 秘密だ
もう一度 くり返そう
それは 仏陀のアプローチにとって 非常に基本的なことだ

〈無〉というのは “No” と 同一なのじゃない

無というのは “Yes” と “No” の 正 体 なのだ

そこでは 対極どうしも もう対極ではなく

反対どうしも もう反対ではない



(01)終わり・・・(02)へ 続く