saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第6話 ーーー Q&A 最初の質問 (09)

…( 永遠の魂という観念
自己という その観念が
あなたの 心(マインド)の中で さまざまなゲームを 演じ続ける )

あなたは 願う
たとえもし 肉体が死んでも
あなたは 自分が生き続けるのだ ということを 確信したい
たくさんの人たちが それで仏陀のところへ やって来たものだった
なぜならば この国は
この二番目の種類の 自我(エゴ)に 支配されてきた国だからだ

人々は 不変の魂,永遠の魂
アートマンの存在を 信じている
彼らは 何度も何度も 仏陀のところへ やって来ては
「私が死んだら
何かが 残るのでしょうか,残らないのでしょうか ? 」と 聞く

すると仏陀は 笑ってこう言う
「いま現在だって 何もありはしないのだよ !
だとしたら どうして死のことなど構うのかね ?
そもそもの はじめから けっして何もありはしなかったのだ」と

そして,これはインド人の 心(マインド)にとっては 受け容れ難かった
インド人の心(マインド)というのは
ほかの何にもまして 第二のタイプの 自我(エゴ)に 引っかかっている

仏教がインドで 生きのびられなかったのは そのためだ
500年も たたないうちに 仏教は 消え失せた
それは 中国に よりよい根を見出した
老子の おかげだ
老子は あそこに
仏教のための 本当に見事な畑を つくり出している
〈風土〉は 整っていた
あたかも 誰かが土地を 耕しておいたかのように ーーー
必要なのは 種だけだった

そして,その種が 中国に着いたとき
それは 一本の大樹へと 成長した

だが,インドからは それは消え失せてしまった

老子は 不変の自己などという観念は 何ひとつ持っていない
そして,中国では
人々は あまりそんなことに 構わなかった
世界には 次の三つの文化が ある
ひとつの文化は 物質主義
西洋で 一番の主流をなしている

もうひとつの文化は 精神主義と 呼ばれる
インドで ごく顕著なものだ

そして,中国では三番目の種類の文化を持っている
物質主義でも精神主義でもない “道(タオ)の人(taoist)”ーーー
瞬間を 生き
未来のことなど 構わない
というのも
天国だの 地獄だの 極楽(パラダイス)だの モクシャ(解脱)だのに 構うのは
基本的には
絶えず自分自身のことに かかわりあっている ということだからだ

それは とても利己的だ
それはとても自己中心的だ

老子によれば
そしてまた仏陀によれば
私によっても そうだが
天国に たどり着こうと がんばっている人というのは
ごくごく自己中心的な人だ
とても利己的だ
それに,彼は彼自身の内なる実存について 何もご存知ない
自己などというものは ありはしないのだ


三番目の扉は 自尊心だった
子供は 物事を やることを覚え
そして やることを 楽しむ

何人かの人たちは そこで引っかかってしまう



(09)終わり・・・(10)へ 続く