saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第6話 ーーー Q&A 最初の質問 (08)


あるとき
ムラ・ナスルディンが 共産主義者になったという話を 聞いた
私は 彼氏を 知っている

私は ちょっとどうなっているのか わからなかった
そんなことは 奇跡だった !
私は 彼の 所有癖を 知っている
そこで私は 彼に尋ねた
「ムラ
君は 共産主義というのがどういう意味なのか 知っているのかい ? 」

彼は「知ってるさ」と 言う

私「もし君が 2台 車を 持っていて
誰かが 1台も 持っていないとしたら
君は 1台 あげなくちゃいけないというのを 知っているのかい ? 」

彼は言う「よろこんで そうするさ」

私「もし君が 2軒 家を持っていて
誰かが 1軒も 持っていないとしたら
1軒 あげなくちゃいけないというのを 知っているのかい ? 」

彼は言う
「お安い御用さ
たった いまでもいい」

そこで私は こう言った
「もし君が 2頭の ロバを持っていたら
誰か 1頭も 持っていない人に あげなくちゃいけないんだぜ」

「そいつは同意できないな
それは あげられない
それだけは できないな ! 」と彼

「だけど」私は言った
「どうしてだい ?
だって,同じ論理じゃないか
同じ 理屈じゃないか」

彼いわく
「いいや,それは同じじゃないさ
ぼくはロバなら 2頭 持っているけど
車2台 というのは 持っていないもの」


共産主義者の 心(マインド)というのは,基本的には資本主義者の 心(マインド)だ
彼らは 同じゲームの相棒に ほかならない
そのゲームの名前は「資本」だ
ダス・カピタル ーーー


たくさんの人たちが
何百万という 人たちが
ただ こういう原始的な 自我(エゴ)しか 発達させていない
ごく初歩的なものだ

もし あなたが こういう自我(エゴ)を 持っているとしたら
明け渡すということは とても難しい
それは 未熟すぎるのだ


二番目のドアを
私は “自己アイデンティティー” と呼ぶ
子供は,自分が誰か という ひとつの観念を育みはじめる

鏡を のぞいて
彼は 同じ顔を 見つけだす
毎朝のように 寝床から飛び起きると
彼は浴室へ 走って行って 鏡を見
そして こう言う
「そうだ
これが 自分なんだ
眠っても 何ひとつ 変わっていない」ーーー

彼は持続的な自己 という ひとつの観念を持ちはじめる

この扉に あまりにもかかわりすぎてしまう 人たち
この扉に 引っかかってしまう人たちというのは
自分たちは極楽(パラダイス)や 天国や モクシャ(moksha 解脱)に 達するんだと思っている いわゆる精神主義者たちだ
だが,そこには 自 分 た ち が いることだろう

天国について考えるとき,あなたは
ここにいる あなた自身のままで 自分が あそこにも行ける と思って 疑わない
「たぶん肉体は そこにはないだろうが
内なる継続性は そのまま残るに 違いない」ーーー

これは 愚かしい !

その解放
その究極の 解放は
自己が 消滅して
一切のアイデンティティーが 消えたとき はじめて起こるのだ

あなたは ひとつの〈空〉になる ーーー

それゆえに,おおシャーリプトラよ
無において そこにはいかなる形象もない
あるいは 形象が空であり,空が形象である
そこには いかなる知識もない

なぜならば,そこには誰も 知 る 者 が いないからだ
そこには何の “ヴィギャン(vigyan)”,意識さえも ない
なぜならば そこには 意識するべき何ものも なく
そして,それを意識する 誰もいないからだ
一切が 消え失せる


子供の その観念
自己継続性 という その観念を
精神主義者たちは 持ち続けている

彼らは どこから魂が 肉体にはいるのか
どこから魂が 肉体を脱け出すのか
魂には どんな形があるのか
それから 怪奇現象や何か
そんなようなことばかり 追いかけ続ける
みんな ガラクタで ナンセンスなものだ

自己というのは 何の形も持たない

それは 純粋な〈無〉だ
それは 雲ひとつない広大な 空(そら)なのだ
それは 無思考の 静寂だ

何ものにも 閉じ込められず
何ものにも 含み込まれない


永遠の魂という観念
自己という その観念が
あなたの 心(マインド)の中で さまざまなゲームを 演じ続ける



(08)終わり・・・(09)へ 続く