saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第二章 「 解き放たれた愛 」 第四の質問 (02)

(…比較が可能なのは 世界が二つ あるときだけだ
しかし それはない

だから私が「すべては オーケイだ」と 言うとき
それは、比較しても少しも 意味がない、ということだ )


しかし、なぜ人々は「これは 正しい世界ではない」と 言うのか ?

彼らは マインドのなかに 理想世界(ユートピア)を 創り出し、その ユートピア(理想世界) と 比較する

彼らは 物事は いかにあるべきか という観念をもち、何ものも 正しくないように みえる
なぜなら、物事は 彼らの理想的な観念のようでは ないからだ

たとえば あなたが 人は四つの眼を持つべきだ と考えていたら・・・

それは 非常に論理的であるように みえる
背中にも 二つの眼ーーー

二つの眼では 正しくないように みえる
背後は どうすればいい ?

だれかが 後ろからやって来て あなたを打ったらどうなる ?

神は そこのところを 見のがした
背中の 二つの眼を 見のがした

そうなったら、ことは オーケイではない
人間は 二つの眼しか 持っていない
人間は 四つの眼を持つべきだ
そうなったら 突然、人間は オーケイではなくなる

そして人間は 同じままだ
あなたは ある観念を生み出し、その観念が 批難する


人は 七十年以上 生きるべきだ・・・
なぜか ?

ひとたび「人は七百年生きるべきだ」と 言ったら、七十年は 非常に貧弱に みえる
しかし なぜ ?
七百年のあいだ ここで何を するというのだろう ?

害し、破壊するのに 七十年で じゅうぶんだとは 思はないかね ?

あなたは 七百年も 必要なのだろうか ?

ちょっと想像してごらん、七百年 生きている アドルフ・ヒトラーをーーー



ひとたび あなたが 観念や目標をもったら、そのときには 物事は ちがってくる

私には どんな観念もない
私は まったく非理想主義者だ

私は 完全な 現実主義者だ
私は 心(マインド)に どんな理想も もたない

そうしたとき、 こ れ が 唯一の 世界だ

バラは 赤い
樹々は みどり
そして 人々は このように在る
あるがままの 在り方でーーー

そして それは まったく美しい



「すべては、この世界はオーケイなのですか ?
そして、それは愛と どんな関係が あるのですか ? 」


それは 大いに 愛と関係がある
もし 世界がオーケイなら、そのとき はじめて あなたは愛することが できる

もし世界が オーケイでなければ、あなたは 政治家になる
あなたは 政治的に なる

政治家は「世界は オーケイではない」という観念に 依存している
自分は 革命を 起こさなければならない
自分は 物事を 変えなければならない
自分は 物事を 正しく 置き換えなければならない
自分は 神を 改良しなければならないーーー

それが 政治家の マインドだ
政治家に 愛は ない

あるのは 批難だけだ
なぜなら 彼は 裁いたからだ


宗教心には どんな裁きも ない
エスは 言う「汝、裁くなかれ」
宗教心は どんな裁きも、どんな批難もしない
だからこそ 愛することができる

憶えておきなさい

あなたの生においても そうだ
あなたは 裁かないときだけ 愛することができる
裁くべき観念が ありすぎたら、あなたは けっして 愛さない
あなたは 自分の観念を 押しつけ つづける

そして 押しつけられた人は 誰であれ、あなたの「愛」とやらの犠牲に なる
あなたは 自分の観念を その人に 押しつけつづける

子供が生まれたときでさえ、すぐ その子に とびつき、操縦し、支配し、改善し はじめる
そして その生命(いのち) を だいなしにする

そうやって だれもが 親や社会によって破壊されてきた




(02)終わり・・・(03)へ 続く