saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第二章 「 解き放たれた愛 」 第四の質問 (01)

第四の質問
「すべては、この世界は オーケイなのですか ?
そして、それと 愛と どんな関係があるのですか ?
あなたが『世界はオーケイだ』と言うとき、それは私にとっても オーケイに聞こえます。
誰かほかの人がそう言ったり、私がそう言ったりすると、それは まちがっているように聞こえます」。




それは 誰がそれを言うかに かかっている

「世界はオーケイだ」と言うとき、私は 理論を持ち出しているのではない
ヴィジョンを 分かち合っているのだ
実際のところ
theory という言葉は ギリシャ語の theoria という語源から きている
theoria とは ヴィジョンを意味する

私があなた方に 何かを言うとき、それはマインドの ものではない
私は 自分の体験を 分かち合っている

そういう瞬間において
あなたが私と 共にいて 私に対してひらいていれば、あなたも そのヴィジョンを 得る
私のヴィジョンが、わずかながら、あなたの存在のなかに こぼれ落ちる
その瞬間「扉」が 開き、あなたは言う
「そうだ、それはそうだ」


誰かほかの人が話していて、それが その人のヴィジョンではない としたら・・・

あなたでさえ 誰かに ものを言うときは
そして それがあなたのヴィジョンでは ないときは
ーーーそれが 借物の眼で見たものでしかなかったときはーーー
それは正しく聞こえない

仏陀のような人が たとえ嘘をついたとしても、それは 真実のように聞こえる

そして、あなたは 真実を語ったとしても、それは 嘘のように聞こえる


それは、それがどこから来るか ということに より多くかかっている
その 源(みなもと) に ーーー

何を言うか ではなく、誰が 言うか だ

あなたはキリストの言葉を 繰り返しつづけることはできるが
誰も あなたを 十字架にかけようとはしない
なぜか ? なぜ彼らは あなたを 十字架にかけないのか ?

あなたは「山上の垂訓」全部を朗読し、立ちつづけることはできる
それこそ人々が 世界中で やっていることだ
キリスト教の司祭、宣教師、「エホバの証人」・・・
あらゆるたぐいの人々が それをやっている

新約聖書を 持ち歩き、新約聖書を引用し、その言葉を 繰り返している
が、誰も 彼らを 十字架の刑に かけない
なぜか ?

エスが これらのことを 言ったとき何が 問題だったのだろう ?

そのときには 言葉に 炎が あった
エスは 彼のヴィジョンを 分かち与えていた

あなたが繰り返しても、そのなかに どんなヴィジョンも ない
それは たんなる言葉に すぎない
それには どんな情熱も、強烈さも、真実も ない
真実は ただ体験を通してのみ やって来る


あなたは「すべては、この世界は オーケイなのですか ?」と 問う
私が「世界はオーケイだ」と 言うとき、実際には 何を意味しているのだろう ?

私が 意味しているのは
これこそ 唯一の世界であり、ほかの世界はない、ということだ


あなたは どんなやり方でも 比較はできない
オーケイか オーケイでないか ということは 筋ちがいだ

これが 存在する 唯一の世界だ

ほかに どんな世界も 存在しない

あなたは、それが より良いか そうでないか を 比較することは できない
比較は 不可能だ

比較が可能なのは 世界が二つ あるときだけだ
しかし それはない


だから私が「すべては オーケイだ」と 言うとき
それは、比較しても少しも 意味がない、ということだ




(01)終わり・・・(02)へ 続く