saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第八章 「残るのは知るものだけ」 最初の質問 (04)

部外者からの質問には意味がある。
だが、それでも私は 答えない。
内部の者からの質問には意味がない。
意味がないときに限り、私は 答えることができる。
あなたが 内部の者なら、このゲームには 始まりがあっても 終わりがないのを 知らなければならない。
あなたは、永遠に続くものの中に入った。

「和尚、説明してください」。
ゲームは 行われるべきもので、説明されるべきものではない。
説明したら、魅力は すっかりなくなる。
さあ、仲間になりなさい。
いっしょにやりなさい。

説明できないもの、つまり 説明されると だめになってしまうものが いくつかある。
例えば、ジョークが そうだ。
そこが ジョークの素晴らしいところで、わかるか わからないかの どちらかだ。
あなたが「説明してください」と頼んでも、説明はできない。
誰かに説明してもらい、完全に理解したとしても 笑いは起こらないだろう。
なぜなら、笑いが起こるのは、あなたの実存が ジョークを瞬時に理解したときだからだ。
ジャンプがあるとき、量子的跳躍があるとき、笑いが起こる。
あなたは ある方向に向かって進んでいた。
話も ある方向に向かって進んでいた。
そのとき 突然、予想だにしなかった 転換が起こる。
まさに その転換、想像もできなかった 思いがけない転換が、ジョークを素晴らしいものにする。
まさにその転換が あなたを打つ、高まっていた緊張を 解きほぐす。
あなたは どうなるのかと気をもんでいた、「どうなるんだろう ? 」「何が起こるんだろう ? 」と。
だが、 何一つ変わったことはなかった。と、突然、話が急転する。
「落ち」は どんでん返しで なければならない。
すると、高まった緊張が解かれ、あなたは 笑い出す。
緊張が解き放たれ、爆発する。
しかし、人に説明してもらったのでは、ジョークを論理的に分析し、すべてを説明してもらって理解したのでは、ジョークが ジョークでなくなる。
ジョークは 楽しむべきものであって、理解すべきものではない。

この世界全体が、果てしのない ジョークなのだ。
理解しようとすれば 取り逃がす。
そうやって哲学者は、いつも 取り逃がし続けている。
哲学者は それを解こうと、手掛かりを見つけようとしてきた。
手掛かりなどない。
世界は 神秘そのもの、鍵も錠前もない。
世界に 身を任せれば、世界は 手に入る。
だが、 理解したがるマインドには、世界は 緊張となって 手に入らない。


生を理解しようとせず、生を生きる。
愛を理解しようとせず、愛の中に入っていく。
そうすれば、知るだろう。
その智は あなたの体験から生まれる。
その智は 神秘を壊さない。
知れば知るほど、知るべきものが 残っていることがわかる。
生は 問題ではない。
問題に 見えるとすれば、間違った生き方をしているということだ。

生は生きられるべき、愛されるべき、体験されるべき神秘だ。


実を言うと、いつも説明を求めるマインド というのは臆病なマインドなのだ。
大きな恐れのために、何でも 説明してほしがる。
説明されないうちは どこにも行けない。
説明してもらうと、その土地になじんだような、そこの地理が わかったような気になる。
地図とガイドブックと時間表を持って 動けるようになる。
そういうマインドは、地図のない、案内のない、図に記されていない 見知らぬ土地には けっして行こうとしない。
だが、 生とは そういうもの。
生は 変化し続けるがゆえに、地図は 作れない。
一瞬一瞬、新しくなる。
太陽の下に 古いものはない と言っておく。
すべては新しい。
それは 途方もないダイナミズム、絶対的運動だ。
変化だけが 普遍のもの、変わることがないものだ。
それ以外のものは、すべて 変わり続ける。


だから、地図を 手にすることはできない。
地図が 出来あがるころには、古くなってしまう。



(04)終わり・・・(05)へ 続く