saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第1話ーーー七段の梯子 (08)

そして,これが湧き上がれば
あなたはひとりのブッダ

そうすると今度は,あなたは笑いだす
なぜならば,そもそものはじめから
自分がずっとブッダだったのがわかるからだ
ただ,それほど深くのぞき込んだことがなかっただけのこと
あなたは自分の実存 (being) の外側を
ぐるぐるぐるぐる走りまわってばかりいた
一度も〈わが家〉に帰って来たことがなかったのだ

哲学者,アーサー - ショーペンハウェルが道を歩いていた
考えに夢中で
彼はたまたまほかの歩行者にぶつかってしまった
衝撃と,哲学者が見るからに無頓着なのにかっとなって
その歩行者が どなった
「おい ! 一体自分を誰だと思ってるんだ ? 」
依然として,考えに没頭したまま
哲学者は言った
「自分が誰か ? ーー
それがわかったらなあ」


誰も知りはしない
この,自分は 自分が誰かを知らないということを知ることで
〈旅〉は はじまるのだ


最初の句 ーー
“ 麗しく, また聖なる
知恵の完成者に礼したてまつる ”

これは祈祷の句だ
インドの経典類はすべて
ある一定の理由から祈祷句ではじまる
これは,ほかの国,ほかの言語においては異なる
ギリシャでは,こうではない
インドの理解はこうだ
つまり,われわれは中空の竹であり
〈永遠〉がわれわれの中を流れて通るにすぎない
その〈永遠〉は 祈られてしかるべきだ
われわれは ただそれの道具になる
われわれは それを祈祷する
それがわれわれの中を流れて通るように呼び出す
誰ひとり,誰がこの『心経』を書いたのか知らないのはそのためだ

これには何の署名もない
というのも,これを書いた人は
自分がその書き手だとは信じていなかったからだ
彼は ただの道具みたいなものだった
彼はちょうど速記者のようなものだった
口述は む こ う から来ていたのだ
それは彼に向かって口述された
彼は忠実に それを書き取った
だが,その著者は彼じゃない
よくて筆者というところだ

“ 麗しく, また聖なる
知恵の完成者に礼したてまつる ”
これは祈祷句だ
ほんの数語 ーー
だが,一語一語がとてもとても深い意味を孕(はら)んでいる


“ 知恵の完成者に礼したてまつる ”

知恵の完成というのは
プラジュニャーパーラミター ( prajna - paramita ) の翻訳だ
プラジュニャーは 知恵を意味する
それは知識じゃない
知識というのは心(マインド)を通して来るものだ
知識というのは外側から来るものだ
知識はけっしてオリジナルじゃない !
それは,そもそもの本性からしてオリジナルではあり得ない
それは借り物だ

知恵とはあなたの独自なヴィジョンを言う
それは外側から来るものじゃない
それはあなたの中で育つものだ
それは店で買って来るプラスチックの造花みたいなものじゃない
それは木に育つ,木を通して育つ本物のバラの花だ
それはその木の歌なのだ
それは内奥無比なる中核から来る
その深みから
それは湧き上がる
ある日,それは表現されない状態にある
別な日,それは表現されている
ある日,それは顕現せずにある
別な日,それは顕現している


プラジュニャーとは知恵 (wisdom) を意味する
しかし,英語で知恵と言ってもまだ違う
英語では,知識 (knowledge) とは 経験なしのものを言う
大学に行って,知識を集める

知恵 (wisdom) というのは
生にはいって行って,経験を集めるという意味だ
だから,若者は 物 識 り にはなれても
けっして 賢 く (wise) はなれない
知恵は時を必要とするからだ
若者は単位なら取れる
哲学博士や文学博士にはなれる
それは難しいことじゃない
だが,賢くなれるのは年寄りだけだ
知恵というのは
その人自身の経験を通じて集められた知識のことなのだ
だが,なおかつそれは外側からのものでしかない


プラジュニャーとは
普通理解されるような意味合いでは
知識でも知恵でもない
それは 内なる開花だ
経験を通してでもない,他人を通してでもない
生を通してでもない,生の出会いを通してでもない
違う
ただ内部の全き静寂の中にはいって行って
そこに隠されているものが炸裂するのを許す
あなたは自分の中に知恵を種子としてたずさえている
ただ,それが芽を出せるような
ふさわしい土壌がいるだけなのだ
知恵はつねにオリジナルだ
それはつねに あ な た の も の であり
あなたのものでしかないのだ
ただし,ここでまた心にとめておきなさい
“ あなたのもの ” と言っても
それはそこに何か自我(エゴ) がからんでいるという意味じゃない
それは,それがあなたの自己本性から来るという意味において あなたのものではある
が,それは自我(エゴ) を主張するようなものじゃない
なぜならば
自我(エゴ) というのは,またしてもあなたの心(マインド) の一部でしかなく
あなたの 内なる静寂に属するものではないからだ


“パーラミター” とは〈彼方(かなた)の〉という意味だ
彼方から,時空の彼方からの ーー
あなたが 時の消え失せる境地にはいったとき
あなたが 空間の消え失せる内なる場所にはいったとき
自分が いつのどこにいるかもわからなくなったとき------
時間は あなたの外側にあり
空間もまた あなたの外側にある ーー
あなたの中には時の消え失せる交差点があるのだ


ある人がイエスに尋ねた
「私たちに神の王国について何か話してください
そこでは特別どんなことがあるのですか ? 」
すると,イエスはこう言ったと伝えられている
「そこにはもう時間というものがない」,と

そこには〈永遠〉がある
時のない瞬間が ーー
それが 彼 方 だ
空間なき空間,時なき瞬間 ーー
あなたはもう閉じ込められていない
そこでは,あなたは 自分がどこにいるとも言えない



(09)へ続く