saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第1話ーーー七段の梯子 (07)

第六番目は霊性超越
ヨーガやその他の方法論ーー

世界中で,時代から時代へと
教会組織とは毛色の違った,教義的ではない
より経験的なメソッドが開発されてきた
あなたは自分のからだや心で何かしなくてはいけない
あなたは自分自身の中に一定のハーモニーをつくり出して
そのハーモニーに乗って行けるように
そのハーモニーの雲に乗って
あなたのあたり前の現実(リアリティー)からはるか遠くまで行けるようにしなくてはいけない
ヨーガはそのすべてを包含し得るものだ
それが第六番目だ


そして,第七番目は超越の寺院
タントラ,道 (TAO),禅 ーー
仏陀の姿勢は第七番目のものだ
プラジュニャーパーラミター ーー
それは,超越的な知恵
さまざまな身体がすべて超えられ
あなたが ただの純粋な覚醒
ただの観照
純粋な主観性になったときにはじめて来る知恵を意味する
この超越的なところに到達しない限り
人間は,いろいろな玩具やあめん棒を与えられずには済まないだろう
虚構の意味を与えられずには済まないだろう


つい先日,私はあるアメリカの車の広告に出くわした
そこには,見事な自動車が載っていて
その車の上にこう書いてあった
“ 信ずるに値する何か ” ーー
いままで人間がこうまで落ちたことはなかった !
信ずるに値する何か ------
あなた方は車を信じるのかね ?
そう,人々は信じるのだ
人々は自分たちの家を信じる
人々は自分たちの車を信じる
人々は自分たちの銀行預金を信じる
改めて見まわしてみれば,あなたはびっくりするだろう
神は消え失せてしまった
が,信仰は消えてはいない
神はもういない
その代わりに,いまではキャデラックがある !
リンカーンがある !
神は消え失せてしまった
が,人間は新しい神様たちをつくり出した
スターリン毛沢東ーー
神は消え失せて,人間は新しい神々をつくり出した
映画スターたちーー


人間がこれほどまでに落ちたのは
人間意識の歴史の中でもはじめてのことだ
しかも,たとえ ときたまあなたが神を思い出したとしても
それはただの空しい言葉にすぎない
苦しいときか欲求不満のときか知らないが
そんなときにしかあなたは神を使わない
まるで 神というのはアスピリンと同じだ
それが, い わ ゆ る 宗教があなた方に信じ込ませているものなのだ
いわく「日に三回 神を服用しなさい
そうすれば痛みは感じないでしょう !」ーー


神はアスピリンじゃない
神は鎮痛剤じゃない
それを,あなた方ときたら痛いときに限って神を思い出す
ある人たちは習慣的に神を思い出す
ある人たちは職業的に神を思い出す
聖職者ーー
彼は職業的に神を思う
彼自身,神とは何の関係もない
ただサラリーをもらっているだけだ
彼は達者になる
ある人たちは習慣で思い出し,ある人たちは職業的に思い出す
だが
誰ひとりとして深い愛において神を想いはしないようだ
ある人たちは,自分たちが不幸になると神の御名を唱える
誰も喜びの中で,お祝いの中では〈彼〉を思い出しもしない
それも,本当はそれこそふさわしいときなのにーー
というのも,楽しいとき
ものすごく楽しいときにはじめて,あなたは神の近くにいるのだからーー
不幸にうちひしがれているときには,遠く離れている
不幸にうちひしがれているときには
あなたは閉じている
幸せなとき
あなたはオープンだ
流れている
あなたは 神と手をつなぐことができる


からして,あなたは習慣で覚えているにすぎない
ただ子供のときから教え込まれてきたからというだけのことだ
それは一種の習慣になってしまった
タバコみたいなものだ
吸ってもたいして楽しいわけじゃない
が,吸わないと何かもの足りない
毎朝,毎晩,神のことを思い起こしたところで
何ひとつ達せられるわけじゃない
なぜなら,その想念はハートから来るものじゃないからだ
ただ 口先だけの,心理的な,機械的なものにすぎない
ところが,思い出さないでいると
あなたは何かもの足りなくなる
それはひとつの儀式になってしまっているのだ
神を儀式にしてしまうことには気をつけなさい
そして,それのプロフェッショナルになることにもーー


ひとつとても有名な話がある
ある名高い大ヨーギ(ヨーガ行者)についての話だ
彼が ある王様と
もし深いサマーディ(三昧)にはいったまま 一年間地中にいられたなら
褒美として王様から 一番上等の馬をもらうという約束をした
王様はそのヨーギが馬には目がないことを知っていた
彼は大の愛馬家だった
ヨーギは条件を飲んで,一年の間生き埋めになった
ところが,その一年の間にその王国はくつがえされて
誰もくだんのヨーギを掘り出すことを覚えている人がいなくなってしまった
約10年後,ある人がふと思い出した
「あのヨーギはどうしたろう ?」ーー
時の王様はそれを確かめに家来を何人かつかわした
ヨーギが掘り出されてみると
彼は依然として深いトランス(恍惚)状態にあった
前もって決めてあったマントラが彼の耳にささやきかけられ
目を覚まさせられて
最初に彼が言ったのは何だと思う ?
「馬はどこだ,馬は ?」ーー


10年地中にこもって沈黙を守った後だというのに------
心はこれっぽっちも変わっちゃいない
「馬はどこだ ?」ーー
この男は本当にトランス(恍惚) にはいっていたのだろうか ?
サマーディ(三昧)に ? ーー
彼は神のことを思っていたのだろうか ?
彼は馬のことを考えていたに違いない
ただし,彼は職業的なまでに熟達していた
腕ききだった
彼はその技術を学んだものに違いない
どうやって呼吸を止めるか
そして,どうやって一種の仮死状態にはいってゆくかーー
だが,それは技術的なものでしかなかった
10年間もそんな深い沈黙を守って
心はこれっぽっちも変わらないなんて !
まるで,その10年は経たなかったのと同じことだ
もし技術的に神を思い起こしたところで
もし職業的に神を思い起こしたところで
習慣的,職業的に神を思い起こしたところで
何ひとつ起こるわけがない


〈一切〉は可能だ
だが,一切の可能性はハートを通してしかあり得ない
だからこそ,この経典の名前がある
“ 般若心経 (The Heart Sutra) ”ーー


何をするにしても,大きな愛をもってしない限り
大きな関与,大きな関わり合い
大きな誠実さ,真正さ
あなたのトータルな実存(being)をもってしない限り
何ひとつ起ころうはずがない
ある人たちにとっては,宗教は義足のようなものでしかない
それには暖かみも生命もない
そして,それらは彼らがよろめき歩く役には立つにしても
けっして彼らの一部にはならない
毎日のように くくりつけなくてはならないのだ


覚えておきなさい
これは地上の何百万という人たちに起こってきたことだ
これはあなたにだって起こり得る
義足をつくり出さないこと
本物の足を発達させるがいい
そうしてはじめて,あなたの生はぬくもりを持つだろうし
そうしてはじめて,あなたの生は
口先だけの嘘の笑いや,見せかけのニセの幸福でない
仮面でなく本物のよろこびを持つことだろう
普通,あなた方はいろいろなものをかぶり続けている
ある人はビューティフルな笑いをかぶり
ある人は慈しみ深い顔をかぶり
ある人はごくごく愛にあふれた人格を着る
だが,それは着物と同じだ
奥深いところで,あなたは変わらない

これらの経文はひとつの大変革を起こし得るものだ

第一に,手はじめとして
つねに「自分は誰か(Who am I ? ) 」という問いがある
そして,人はそれを問い続けなければならない
あなたが最初に「自分は誰か?」と問いかける
と,ムラダーラが答えるだろう
「お前は体だよ
何というナンセンスだ !
聞くまでもないことじゃないか
もうわかっているくせに」

その次に,第二番手が言うだろう
「お前は性欲だよ」

その次には,第三番手が言うだろう
「お前は権力トリップだよ
自我(エゴ)だ」
そして,以下同様ーー


覚えておきなさい
あなたは何の答えも来なくなるときまで立ち止まるべきじゃないない
それ以前は駄目だ
もし,「お前はこれだ,お前はあれだ」というように
何かしら答えが来るようだったら
よくわきまえておくがいい
それはどこかの中枢(センター)が答えを提供してくれているにすぎないのだ
六つの中枢(センター)がすべて通過され
さまざまなそれらの答えがすべて消し去られ
「自分は誰か?」といくら問いかけても
どこからも何の答えも来ない
全き静寂ーー
あなたの問いが あなた自身の中でこだまする
「私は誰か?」ーー
と,そこには静寂がある
どこからも,どこの片隅からも 何ひとつ答えは湧いてこない
あなたは絶対的なまでに 現 存 し
絶対的なまでに静まり
そこには,波動(ヴァイブレーション)ひとつない
「自分は誰か ? 」 ーー
ただ 静寂だけ
そうすると,ひとつの奇跡が起こる
あなたはその問いを発することすらできないのだ
答えなどというものが馬鹿馬鹿しくなる
そうすると最後には,問いもまた馬鹿馬鹿しくなる

まず,いろいろな答えが消え失せる
すると次には問いもまた消え失せる
その二つは一緒にしか生きていられないからだ
それらはコインの両面のようなものだ
もし一方の面がなくなったら
もう一方も持ちこたえられない

まず,答えが消え失せ
次には問いが消え失せる
そして,問いと答えのその消失とともに
あなたは 了 解 するに至る
それが〈超越〉だ
あなたは わ か る
が,それでも言えない
あなたは わかる
が,それでもはっきりとは表わせない
あなたは わかる
自分の実存そのものから「自分が 誰か」ーー
が,それは言語化され得ない
それは生きた理解だ
経典から来たものじゃない
借りものでもない
他人のものでもない
それは あなたの中に湧き上がったものなのだ


そして,これが湧き上がれば
あなたは ひとりのブッダ



(08)へ続く