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OSHO 「信心銘」第五章 ⑥

 
 あなた方はそこにいて、私もここにいる。
私たちは互いを、二つのやり方で見ることができる。

私は 背景の方に目をやることができる。
背景には立木や灌木、それから草花や空がある。
広大な宇宙が あなた方の背景だ。
また私は、あなたたちに目をやることもできる。
あなたたちは形態だ。
だが 思考(マインド)は常に形態だけを見る。

 僧サンやイエスや、仏陀のような人たちの所へ行くと、その目が 自分を見ていないように感じられることがあるのはそのためだ。
あなたたちは形態に過ぎない。
そしてこういう人たちは 背景を見ている。
この人たちのゲシュタルトは違っている。

向こうが自分に注意を向けてくれないので、この人たちの目が冷たいように感じられるかも知れない。


 あなたは雲に過ぎない。
仏陀のような人たちが見る時、あなたがそこにいても、それは背景の中のひとつの小さな部分としているに過ぎない。

背景は広大で、あなたは ひとつの点に過ぎない。
だがあなたは他の人に、小さな点である自分を、まるで宇宙全体でもあるかのように、まるで自分を越えたものなど 何ひとつ存在しないかのように見て欲しいのだ。


 仏陀の愛は冷たく見えることだろう。
あなたが求めているのは熱い愛だ。
自分を見つめて、他のすべてを忘れるような目だ。
それは仏陀のような人には不可能なことだ。

あなたはあなたの位置を占めてはいる。
だがそれは 小さな点に過ぎない。
たとえどんなに美しいとしても、広大な背景の一部分に過ぎない。
すべての注意が あなたに注がれるわけにはいかない。


 覚者のそばで 自我(エゴ)がひどく傷つくのはそのためだ。
自我(エゴ)は すべての注意を求めるからだ。
「私を見ろ、私が世界の中心だ」と。
だが、あなたは世界の中心ではない。

本当は 世界には、中心などない。

中心が存在するのは、世界に かぎりがある場合だけだ。
一定の大きさを持った円周なら中心があり得る。
が、これ は 無限円だ。

 中心のことなど考えるだけで馬鹿げている。
世界に中心などない。
世界は どんな中心もなしに存在している。
そしてそれが素晴らしいのだ。

だからこそ 誰でもが「私こそ中心だ」と、考えることができる。
中心があれば、そんなことは不可能だ。

回教徒やキリスト教徒やユダヤ教徒が、ヒンドウ―教徒の
「私は神だ。 アハム-ブラーマスミ」という言葉を許せないのはそのためだ。

彼らは「それは邪教だ。 何を言うのか。 神だけが中心だ。 他の誰も中心ではない」と言う。
だが、ヒンドウー教徒は、陽気に「私は神だ」ということができる。
なぜなら、彼らが言うには、中心など存在せず、誰もが中心だからだ。

 だが、すべての注意が自分一人にむけられるべきだと求めるなら、それこそが思考(マインド)だ----背景を見ず、ただ形態だけを見る 昔からの思考(マインド)の癖だ。


 瞑想では、形態から背景へ、星から空へ、注意を移さなければならない。

この転換が 起これば起こるほど、自分が思考(マインド)ではないと感じれば感じるほど、それだけ それを落とすのが容易に感じられるようになる。

 ちょうど服を脱ぐようなものだ……
…⑦に続く


「信心銘」by OSHO
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財)禅文化研究所