saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「落ちるのは熟れた果実だけ……」01

「01」

(質問)

「バグワン ーー

  困難なことを じっと耐える姿勢を発達させるうちに、私は 人生の多くを あきらめるようになってしまいました。

このあきらめは、瞑想の中でもっと生き生きと生命的になろうとする自分の努力を圧迫する重(おも)しのような感じがします。

  これは私が自分の自我(エゴ)を抑圧してきたという意味でしょうか ? 

それに、私がほんとうに自我(エゴ)を落とせるようになるためには、私はもう一度 それ(エゴ)を見つけ出さなければならないという意味なのでしょうか ? 」

 

 

  これは きわめて大きな 問題の 一つ ーー 

  たいへん逆説的に 思えるかもしれない、が、これは真実だ。

自我(エゴ)を 失うことが できるためには

まずそれを獲得しなければならない。

熟した果実だけが 大地に落ちることが できる !  

 

  熟すこと……、それがすべてだ。

熟していない自我(エゴ)は 投げ出すことはできない

破壊することもできない。

もし熟していない自我(エゴ)を相手に それを破壊しよう 溶解しようと 闘うとしたら、その努力は すべて失敗に終ることになる。

そして 破壊するどころか

むしろ、 新しい微妙なかたちで ますます強くなっていくことがわかるだろう。

これは理解すべき 基本的なこと。

自我(エゴ)は 頂点(ピーク)まで達しなければならない

強くならなければならない

一種の まとまりを得なければならない。

そうなって はじめて、それを溶解することができる。

弱い自我(エゴ)は 溶解のしようがない。

そして これがひとつ問題となるのだ ーー 

 

  東洋では

あらゆる宗教が 無我を、自我(エゴ)のないことを説いてきた。

だから東洋では

あらゆる人が 最初から自我(エゴ)に 反対する。

 

この対立的な姿勢のために、自我(エゴ)は  けっして強くならなかった。

ほおり投げだせるほどに まとまり整うまでには けっして至らなかった。

  それは まったく熟さなかった ーー 

だから 東洋では

自我(エゴ)を 溶解させることは きわめてむつかしい

ほとんど 不可能に近い。

 

  西洋では

その宗教と心理学の 伝統全体が 人々に強い自我(エゴ)を もつように提議し、説教し、説得している。

なぜなら、強固な自我(エゴ)を もたなかったら、どうやって生き延びていける ? 

生とは 苦闘だ。

もし自我(エゴ)が なかったら あなたは壊されてしまう。

いったい誰が 抵抗する ?  

誰が 闘う ?  

誰が競争する ?  

生とは 絶えまない競争だ。

  西洋の心理学は こう言う。

自我(エゴ)を 獲得するがいい

強い自我と なるがいい ーー !

ところが 西洋では 自我(エゴ)を消すのは非常に簡単だ。

西洋人の 求道者は

自我(エゴ)こそ問題だ という理解に到達したときには

簡単にそれを解消することができる

東洋人の求道者より ずっと簡単にできる。

ふむ?

 

これは逆説的だね。

西洋では 自我を教える

東洋では 無我を教える

しかし西洋では 自我を解消するのは簡単だ

東洋では それは非常に むつかしい ーー 

 

  これは あなたがたにとって 困難な課題になるだろう。

まず 獲得して、 それから 失う……

というのも

あなたが 失うことができるのは、あなたが持っているものだけだからだ。

 

持っていなかったら どうやって失くすことができる ?  

  あなたがたは 豊かであって はじめて貧しくなれる。

もし 豊かでなかったら

あなたがたの貧しさには

エスが 説きつづけた “ 心貧しき者 ” のもつ 美しさ

ゴータマ仏陀が 乞食になったときに見られるような あの深い意味はない。

 

豊かな者だけが 貧しくなることができる。

なぜなら人は、持っているものしか 失うことができないからだ。

もし 豊かだったことが なかったら

どうして あなたに貧しくなれよう ?  

あなたの貧しさは ほんの表面的なものに とどまるだけ

それは けっして精神に在るものではない。

表面的には 貧しいが

深いところでは まだ富を 熱望しつづける。

それは 一つの野心となる

富を獲得したいという 間断ない欲望となる。

表面的にだけ あなたは貧しい。

そして あなたは

貧しさは善い などと言って 自分を慰めさえするのだ。

しかし あなたがたには 貧しくはなれない。

豊かな人だけが、真に富める者だけが 貧しくなれる。

富を持っているだけでは ほんとうに豊かであるためには充分ではない。

それでも まだ貧しいかもしれない。

もし野心が まだあるとしたら 

あなたは 貧しい !  

あなたが 何を持っているかは肝心ではない。

もしあなたが 充分持っていたら

そのときには 欲望は消える。

欲望の消失 ーー 、それが 充分であることの指針となる。

そうなったら あなたは豊かだ

あなたには その豊かさを 落とすことができる

あなたは貧しくなることが できる……

  そのときには あなたの貧しさは独自の王国をもつ ーー 

 

  同じことが すべてに起こる。

ウパニシャッド、あるいは老子、イエス仏陀……

彼らは 皆、知識とは無用のものと 教えてきた。

ますます  も  の  識  り  になることは 何の助けにもならない

助けにならないどころか 邪魔になる。

知識は 必要ではない。

  が

それは 無知であれ という意味ではない。

その無知は ほんとうのものではない。

知識を 充分に集積したときに、それをまた棄てる ーー 

と、そのとき はじめて無知が 達せられる。

そのときにこそ あなたは真に無知になるのだ……

……ソクラテスのように。

このように 彼は 言うことができた。

私が知っているのは ただ一つ、 自分は 何も知らないということだ、と。

この知識

あるいは この無知は、

 ーーあなたの呼びたいように呼ぶがいい ーー 

全面的に異質のもの、質的に ちがっているものだ。

次元が 変わってしまったのだ。

もしあなたが ごく単純に無知であるのなら

というのも あなたはけっして真の知識に 達したわけではないからだが

その無知は 賢くはありえない。

それは 知恵ではない

それは たんなる知識の欠如に すぎない。

そして 内側には 切望が残っている。

どうしたら もっと知識が得られるだろうか ?  

どうしたら もっと情報が得られるだろうか ?  

 

  知りすぎてしまうと……

あなたがたは 経典を 知っている

過去を、伝統を知っている

あなたがたは、知りうるものは すべて知っている

突如として

あなたは そのすべての不毛さに 目覚めてくる。

突如として

あなたは これは知識ではない と 目覚めてくる。

これは 借り物だ !  

これは あなた自身の 実存的な体験ではない

これは あなた自身が  知  る  に 至ったものではない !  

  他の人たちは それを  知  っ  た  の かもしれない、が

あなたは それを ただ集めただけだ。

あなたの その集積は 機械的なもの

それは あなたの内部から 湧き起こったものではない

それは 成長ではない。

それは 他所(よそ)の問口から寄せ集めた ガラクタに すぎない。

借り物、死物 ーー !  

 

  憶えておくがいい

 知  る  ということは

 あ  な  た  自  身  が  知  っ  た ときにのみ

それが あなた自身の直接の体験で あるときにのみ 生きてくるのだ と。

他を通して 知るときには

それは ただの記憶であって 知識ではない。

  記憶 というのは死んでいる ーー 

 

 

「01」おわり…「02」へ つづく

 

 

 

『マイ ウエイ』⚪流れ行く白雲の道

バグワン・シュリ・ラジニーシ

🔘質疑応答集

話者   バグワン・シュリ・ラジニーシ

翻訳   マ・アナンド・ナルタン

発行者   スワミ・アナンド・シャンタン

発行   RPJ

発売   株式会社 めるくまーる社