saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第2章(質疑応答)「トータルであることは至福だ」(12)


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最初の質問

(12)

( セックスは 誰かほかの者に 生を授けるだけではなく、究極的には、 自分自身にも また、生を 授ける )

 

それは 二重に働く。

あなたは セックスを通して 誰かを再生する。

が、それは重要ではない −−− 性的欲望のせいで、あなたは 再び この世に生まれる。

何度も 何度も、自分自身を 再生しているのだ。

アダムは セックスを意識するようになった。

それが 最初の意識だ。

だが、そのセックスは 始まりに過ぎない。

そのあとに、ほかの 全てが ついてくる。

 

実際、心理学者たちは こう言っている。

「あらゆる好奇心が、 ある意味で性的だ」

ある人が 性的に不能の状態で 生まれたとすると、彼は 何に関しても 好奇心が湧いてこない −−− 真理についてでさえだ。

というのも、意識の内にある 好奇心は、根本的には性的だからだ。

 

隠されているものを 発見すること、知らないことを 知ること、未知なる世界を 知ろうとすることは、性的だ。

 

子供たちは、身体の隠された部分を お互い探し出して遊ぶ。

それが 好奇心の始まりであり、すべての科学の 始まりだ。

隠された物事、知らない物事を 探し出すことがだ。

実際、ある人が 性的で あれば あるほど、その人は より創作力に 富んでいる。

 

性的な人間の方が、性的でない人間より 知性的になる。

性的エネルギーが 少なければ、知性的ではない ということだ。

より多くのエネルギーを 持っていたら、より知性的になる −−− セックスは 露わにすべき 深い事実だからだ。

 

それは身体だけではない。

異性の身体だけではない。

隠された すべてを表している。

 

だから もし社会が、セックスをひどく 非難する態度を 取ると、その社会は 決して科学的にはならない。

それは 好奇心を 非難することだ からだ。

東洋が科学的に ならなかったのは、セックスへの 多大な敵意の せいだ。

また、もしキリスト教が 幅をきかせていたら、西洋も また科学的には なれなかった。

 

西洋が 科学的になったのは、バチカンが消え去り、ローマが まったく重要でなくなってからのことだ。

この三百年 足らずで、キリスト教王国は 地に落ち、消え去った。

ゆえに 西洋が 科学的になれたのだ。

セックスエネルギーの開放が、同時に 科学研究への解放ともなった。

 

性的に自由な社会は 科学的であるだろうし、

性的に 自由でない社会は、科学的な社会ではないだろう。

セックスが 自由になると、すべてが 生き生きとしてくる。

 

もし あなた方の子供が 成長し、性的に成熟して 社会的な道徳からはみ出す振舞いをしても、そのことは忘れなさい。

それは 自然だ。

彼の 血脈の中に 新しいエネルギーが 入り込み、新しい生命が かけめぐれば、社会的な道徳律から はみ出すのは 必然だ。

その反逆は ただの 一部に過ぎない。

 

彼は 創作者でもあるだろう。

彼は 新しいこと、新しいやり方、新しいスタイル、新しい 行き方、新しい 社会を 作り上げていくだろう。

 

彼は 新しい夢を見るだろう。

彼は 新しいユートピアのことを 考えるだろう。

もしあなた方が セックスを非難すれば、

若者が社会に 反逆する という現象は消えるだろう。

世界中の若者の 社会への反逆は、セックスの自由に関する 一部だ。

古い文化においては、社会への反逆はなかった。

セックスが あまりにも非難され、エネルギーが あまりにも抑圧されていたからだ。

エネルギーを 抑圧することで、すべての反逆が押さえ込まれていた。

もしセックスエネルギーに 自由を与えたら、

あらゆる反逆が 社会に存在するようになる。

あらゆるタイプの反逆が、存在するようになるだろう。

 

知ること それ自体に、セックスの次元がある。

 

 

(12)終わり(13)へ 続く