saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第18章「意識の光」質疑応答 (15)


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(15)

( あなたが 日差しのなかに 座っている。

その時、太陽の暖かさを感じなさい、 言葉を 使わずに )

 

太陽が あなたに触れている、そこには深い交感がある。

それを 感じなさい ! 

 

身体で感じる 気づき、肉体の気づきが 発達していく。

そして、身体での気づきを 発達させても マインドは 一種の停止状態に 至る。

そんなふうにすると、マインドは必要ない。

マインドが 止まれば、 あなたは 再び 深い無意識へと 投げ出される。

非常に深い 油断なさを持ってすれば 無意識を貫き通すことができる。

その時、あなたは 自分で 光を 有している。

すると、闇は 消え去る。

 

肉体志向の人間、彼らにとっては 身体に注意深くあることが いいだろう。

 

肉体志向でない人間は 呼吸を意識しているほうがいい。

 

それが難しい と 感じる人、彼らにとっては ある人為的な 工夫を使うことができる。

たとえば、マントラだ −−− それは 意識的であるための 人為的な工夫だ。

「ラム、 ラム、 ラム」というように、絶え間なく マントラを 使ってもいい。

内側で、「ラム、ラム、ラム」という円環を 作り出す。

または「オーム」、あるいは「アッラー

あるいは 何でもいい。

その言葉を ずっと繰り返し続ける。

だが、単純な繰り返しでは 用をなさない。

繰り返し ながらも、意識的であること。

 

「ラム、ラム、ラム」と 唱えている時 

唱えていることを 意識しなさい。

それを 聞いていなさい −−−「ラム、 ラム、 ラム」−−− 

それを 意識している のだ。

 

怒りに 気づいているのは 難しい。

怒りは 突然やってくるので、あらかじめ心積りできない からだ。

怒りが やってきたら、その感情に完全に 圧倒されてしまって、怒りに気づいていることを 忘れてしまう。

 

だから、「ラム、ラム、ラム」と 唱えるという工夫をしなさい。

それは できるだろう。

 

それは 突如として やってくるような方法ではない。

もし その方法が 長期間使われるなら それは 内なる音になる。

そうすれば、あなたが 何をしていようとも 

「ラム、ラム、ラム」という音が 静かに鳴り響いているだろう。

それに 気づいていなさい。

そうしたら、 そのマントラは 完成している。

 

ジャパ (呪文などを唱えること)は 完成した。

その時 あなたは、ただ その音を 生み出しているだけではなく、聞く者でもある。

あなたが「ラム」と唱えるだけではない −−− あなたは それを聞いてもいる。 

円が 完結した。

 

私が 何かを言い、あなたは それを聞く。

その時、エネルギーは散逸する。

 

だが、あなたが「ラム」と言い、自分でそれを 聞くなら、エネルギーは 戻ってくる。

あなたは 話し手であり、聞き手である。

だが、 それに 気づいていること。

形骸だけの お決まりのことに なってはならない。

さもなければ、その背後で 何の気づきもなしに「ラム ラム ラム」と オウムのように言い続けられる。

そうしたら、そんなものは 役に立たない。

反対に 深い眠りさえ 生み出しかねない。

 

それは 一種の催眠状態に なりかねない。

そうしたら、あなたは 生気を失ってしまう。

 

クリシュナムルティは こう言う、「マントラを唱える者は生気を失う。 馬鹿になってしまう」と。

ある意味で当たっているが、ある意味において だけだ。

もしあなたが、あるマントラ機械的な 反復として 使っているなら、あなたは 生気を失う。

宗教的と言われる人達を 見てごらん。

彼らは まったく生気を失い、馬鹿に なっている。

知性も ないし、彼らの目の中には 生の輝きも、快活さも ない。

彼らは 重く、 鉛のようで、まったく死んでいるように 見える。

彼らは 世界に 何も貢献していない。

彼らは 何一つ 生み出していない。

ただ マントラを 繰り返しているだけだ。

当然、あるマントラを 気づきなしに 反復し続ければ、自分自身 飽きてしまい、その退屈が 愚かさを生み出す。

 

あなたは 活気を失い、生への興味を失う。

 

ある音を 間断なく反復することで 狂気を生み出すことさえあり得る。

 

だが、クリシュナムルティは 

ある意味においてのみ 正しい。

さもなければ、彼は完全に、全面的に間違っている。

いつであれ、ある人が 自分が関与しないことを判断するときは、実のところ その判断は正当ではない。

それが 何であろうと、完璧なる事例によって 判断されねばならない。

 

ジャパの科学は、ただ ある音を 反復するだけではない。

反復は 二次的なものだ。

それは、ただ気づきのための何かを 作り出すための 工夫にすぎない。

 

大事なのは 気づきだ。

根本的なことは、気づいていることだ。

 

あなたが家を 建てるとする。

その時、家は二次的だ。

あなたは その中に住むために 家を建てる。

その中に住まないのに 家を造り 

その外に 住むとしたら、あなたは馬鹿だ。

 

ある一つの名前、または 音を反復して 唱えることは 

住むための家を 造っている ということだ。

それは ある環境を 内側に作り出す。

 

 

 

(15)終わり(16)ヘ 続く