saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第五章 「〈光明〉の味 」 (17)

(…人は、見るべきものが 何ひとつない地点にまで 達しなければならない
見るべきものが 何もないときには、見る者もまた 消える

それこそが 憶えておくべき 核心だ )

それを理解することは きわめてむつかしい
見る者は、見られるものが あって はじめて存在する

だから クリシュナムルティは 何度も「観察する者は観察される者だ」と 言いつづける
見るべき 対象がないとき、どうしてあなたは 見る者として そこに存在できる ?

中身が消えるとき、その中身を容れるものも また消える
その 二つは 共存する
その二つは 同じコインの 二つの面だ


仏陀は、霊的精神的(スピリチュアル) な体験 というものはない、 と言う
体験というものは すべて霊的精神的ではない

ある人が やって来て「私の クンダリーニが上昇しています」と言う
カシミールの ゴーピ・クリシュナのような人が「クンダリーニが昇っている」と言う
だがそれは 霊的なものではない
クンダリーニは まったく霊的なものではない
それは生理的現象、世俗的現象だ

それはちょうど セックスが 快楽を与えるように、あなたに快楽を与えることができる
それは 上方に動くエネルギーと 同じものだ
それは 霊性とは 無縁だ、少なくとも 仏陀が意味する霊性とは無縁だ

ゴーピ・クリシュナは、自分が成就したのは クンダリーニが上がったからだ、と言う
彼は 自分の脊柱のなかを動く、しびれるようなエネルギーを 感じるという
だが、 脊柱は脊柱に すぎない
今度は、クンダリーニが上がり、第七チャクラのサハスラーラに達し
その結果、自分は創造的になった、と 彼は考える

そこで彼は 詩を書きはじめた
それらの詩は ただの がらくただ
何かを立証しているとすれば、それは すべてのクンダリーニの誤りを 立証しているだけだ
私は かつて一度も あのようなばかげた詩に 出くわしたことがない
まるで学校の子供のようだ
彼らでさえ もっとすばらしい詩を書くときがある


あなたは ひとりだけ似た人を 見出すことができる
それは シュリ・チンモイだ
彼も 詩を書く
一晩で 彼は 一千の詩を 書き上げる
それらを 詩と呼ぶことさえ誇張だ
それらは 散文でさえない
それらのなかには 少しも 詩情がない
だがその人たちは、霊的な創造性を達成した、と 言う
なぜなら クンダリーニが 上がったのだからーーー

ある人は 頭の中に光を見て、いまや〈光明〉が起こった と思う
「なぜなら 私は 光を見たからだ、私が眼を閉じると大いなる光があった」


私は 光が見えることはありえない と言っているのではない
そしてクンダリーニが 上がらない と 言っているのではない
それは ごく簡単に上がる

あなたは ここで見ることができる
ここでは 多くのサニヤシンたちが
ゴーピ・クリシュナが クンダリーニだと考えている状態に 入っている
それは 自慢するほどの ことではない


どんな経験も 外側で あらざるをえない
なぜなら あなたが 経験者であり、その 経験は そこにあって、あなたに直面しているからだ

あらゆる 経験が 消えるとき、そこに 霊性がある
しかしそのとき、ある現象が 起こる
あらゆる経験が 消えるとき、その経験者も また消えるのだ
経験が消える すぐあとに 経験者も消える
なぜなら それは 実在できないからだ
それは 経験なくしては 存続できないからだ

それは経験を糧として 生きている

経験と 経験者の 両方が消え去ったとき、あなたは ボーディサットヴァだ



“ 何故か ?
それは菩薩は法も非法も捕らえてはならないからだ
それゆえに
この言葉が如来によって密意をもって説かれた
「法は筏の如しという講話を知る者たちによって
法は捨てられなければならない
まして非法はなおさらそうである」”


仏陀は あらゆるものが捨てられなければならない、と言う
法(ダルマ)、 非法(ノーダルマ)、体験、偉大な体験、霊的な体験、そして ついには 体験者そのものもーーー



(17)終わり・・・(18)ヘ 続く