saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第7話 ーーー 〈無〉に 帰依する (21)


〈無〉は 自由をもたらす
自己からの自由こそは 究極の自由だ
それより高次の自由は 何もない

〈無〉は 自由であり
そして,それは J.P. サルトルが言うような 不安でもなく
キェルケゴールが言うような おののきでもない
それは 祝福だ
それは 究極の至福なのだ
それは おののき じゃない
なぜならば,そこには誰も おののく者が いないのだから ーーー


瞑想は あなたを それに向かって仕立て上げてくれる
あなたが 瞑想に はいってゆくにつれて
あなたは 日 一日と 自分がなくなってゆくのに 気づくだろう
そして,自分自身を 見出すことが 少なければ少ないほど
その同じ割合で あなたの祝福が,あなたの天恵が
あなたの至福が 育ってゆく
ゆっくりゆっくりと
あなたは 内なる世界の数学を 学ぶ
いればいるほど あなたはそれだけ地獄におり
いなくなれば いなくなるほど あなたは天国にいる ーーー
あなたが いなくなった その日
それが ニルヴァーナなのだ
究極の我が家への 到着 ーーー

あなたは 完全に 一周してきた
あなたは もう一度 子供になっている
そこには もう 何の自己もない


覚えておきなさい
自由というのは 自 己 の 自由という意味じゃない
自由とは 自 己 か ら の 自由を 意味するのだ

サルトルにとってそれは “自己の自由” を意味する
それが 刑のように感じられるのは そのためだ
自己が 残っている
それは 自由にはなる
だが,それ は 残っている
そして,そこに恐怖があるのは そのためなのだ

もし 自由が,その中に自己が消え失せてしまっているようなものであり
そこには自由だけで,自由な何者も いないとしたら
そのとき 誰が震え おののくことができる ?

そして誰が 不安を 感じることができる ?

そして誰が 刑に処せられていると 感じたりできる ?

そして,そうだとしたら
そこには 選択という問題など 何もない
その自由が ひとりでに 行動を起こす

人は 無選択性から 動き
そこには 何の責任も 残ってはいない
なぜならば
そこには何か責任を感じられるような 誰もいやしないからだ
〈無〉が 行為する
“ 為無為 (wei-wu-wei) ”ーーー

無行為が 行為する
それは 内なる無と 外なる無との間の 呼応にほかならない

そして,そこには何ひとつ 邪魔をするものがない

“ 菩薩が知恵の完成に依って,思考の被覆なしに住するのは 彼の無達成のたまものである ”


いまや,思考の被覆は 何もない

そして,思考の被覆こそ
あなたを 外なる〈無〉から 分けている 障壁(バリアー)なのだ
それが,きのう話をした もとマークに 私が 言っていたことだ

きのうの夜,彼は サンニャースに 足を踏み入れた
彼は ニーランバー(neelamber) に なった
ニーランバーというのは 青空という意味だ

誰が 外なる空(そら)を 内なる空(そら)から 別け隔てているのだろう ?

あなたの 思考の被覆だ
そういう 着 物 が
あなたの裸身が 空と触れ合うことを
あなたの裸身が 空と橋渡しされることを 許さない

自分が ヒンドゥー教である という思い
自分が クリスチャンである という思い
自分が共産主義者であるとか ファシストであるとかいう思いが 別け隔てする

自分は美しい とか 醜い とかという思いが 別け隔てする
自分のことを 知性的だとか 非知性的だとか思う その思いが 別け隔てする

どんな種類の思いでも構わない
もうそこに 区分がある
まして,あなたは何百万という 思考をお持ちだ

あなたは 玉ネギの皮を 剥くように
自分自身を 剥いてゆかねばなるまい
一枚 また 一枚と ーーー

一枚の皮を 剥くと
また 別な皮がある
それを 剥いてごらん
そこにまた 別な皮がある

そして 当然
玉ネギの皮を剥けば 目には涙が あふれてくる
それは 痛みを伴う

あなたが あなたの実存を 剥きはじめるとき
それは もっと痛む
それは 着物を脱ぐなどというものじゃない
それは 皮膚を 剥ぎ取ることなのだ

だがもし 剥き続けるならば
あなたは,ある日 玉ネギが 消え失せてしまって
手中には ただ〈無〉しか 残らないところまで来る
その〈無〉こそ 至福なのだ


仏陀は言う
菩薩は思考の被覆なしに住する,と

彼は こ こ に いる
だが彼は 誰でもない
彼は こ こ に いる
が,彼には 何の観念も ない
彼は こ こ に いる
が,彼には 何の思いも ない

彼が思考を使えない というのじゃない
私は絶え間なく思考を 使い続けている
私はいま あなた方に向かって話をしている
私は 心(マインド)と思考を 使わなくてはならない
だが,それらは 私を覆いはしない
それらは かたわらにある
いつであれ 私が必要とするとき
私は それらを使う
いつであれ私がそれらを 使っていないとき
それらは そこにない
私の 内なる空(そら)と 外なる(そら)は ひとつだ

そして,私が それらを使っている間でさえ
私は それらが私を 分けられはしない ということを知っている
それは 道具のようなものだ
あなたは それらを 使うことができる
だが,あなたは
どんな形にしろ それらによって 覆われていはしないのだ


“ 思考の被覆なしに住する・・・ ”
仏陀は,思考の被覆には 三種類ある と言う



(21)終わり・・・(22)へ 続く