saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第六章 内なる導き 4️⃣

(…そこで教えられていたのは 無垢だった。)

その方針は、オックスフォードや カーシーや ケンブリッジとは 違っていた。
まったく異なる方針で、別種のマインドが養成されていた。

だから、タクシャシラや ナーランダで学んだ人々は、ほとんどが比丘(ビク)、すなわちサニヤシンになった。
大学を卒業するまでに、学生は 世界を放棄した。
こうした大学は 反現世的だった------別の次元に向けられていた。
現世的な物差では計れないようなものに向けられていた。

こうした技法は、その種の人々向けだった。
その種の人間は、生まれつき無垢であったか、または 無垢になるべく自分自身を訓練していた。


エスは弟子たちに対して、「片方の頬を打たれたら、もう一方の頬を差し出せ」と言った。

それは 何を意図していたか。
無垢になれ ということだ。
こんなことのできるのは 馬鹿な人間だけだ。

もし誰かに 頬を打たれたら、勘定高いマインドは こう言うだろう、
「もっと強く 打ち返せーーー今すぐに」。
真に勘定高いマインドは こう言うだろう、
「打たれる前に相手を打て。 攻撃は最大の防御だ」。

マキュヴェリに 聞いてごらんーーーじつに利口な人間だ。
彼いわく、
「攻撃される前に、 相手を攻撃せよ。
攻撃は最大の防御だ。
もし先に攻撃されたら、こちらは弱体化し、相手に主導権を握られる。
もう その競争は対等ではない。
相手が先んじている。
だから、相手に先行を許してはならない。
攻撃される前に、こちらから攻撃するのだ」


これが 勘定高いマインド、利口なマインドだ。
マキュヴェリの本は、近世ヨーロッパの君主や 王たちみなに 読まれた。
でも、あまりに利口だったので、どこの王も 彼を雇おうとしない。

本は読まれた。
その本は 武力外交のバイブルだった。
あらゆる君主が、その本、マキュヴェリの『君主論』を読み、それに従う。

でも 誰も 彼を雇おうとしない。
こんな利口な男は 遠ざけておいたほうがいい。
危険だ。 知りすぎている。
彼は言う、
「高潔は よくない。 だが 高潔のふりをするのはいい。
高潔に なってはいけない。
その ふりをするのだ。
いつも『自分は高潔だ』という ふりをする。
それは絶対に有利だ。 両方から得をする。
悪徳から 得をするし、高潔からも得をする」。

これが 勘定高いマインドだ。
いつも自分は 高潔だというふりをし、つねに高潔を誉め讃えよ。
でも、決して 真に高潔になってはいけない。

いつも高潔を誉め讃えよ。
すると 人からは 高潔な人間だと思われる。
つねに悪徳を非難せよ。
でも 悪徳を用いるのに 遠慮はいらない。


エスいわく、
「誰かに一方の頬を打たれたら、もう一方を差し出せ。
また、誰かにコートをひったくられたら、シャツも与えよ。
また、誰かに荷物を押しつけられ、一マイル運べと言われたら、二マイル運ぼう と申し出よ」。

これでは まったくの馬鹿だ。
でも、きわめて意味深い。

これが できる人間には、この種の技法が向いている。


エスは弟子たちを、突然の悟りに向けて準備している。
ちょっと考えてごらん。
どこまでも無垢な人間、信頼を 持つ人間であって初めて、誰かに打たれても、「彼が打つのも、私のためを思ってだ」と 考える。

それで もう一方の頬を差し出して、相手に打たせる。
相手の 善意を信じている。
誰も 敵ではない。
それこそが イエスの言う「汝の敵を愛せよ」の意味だ。
誰も 敵ではない。

誰も 敵だと 思ってはいけない。
だからといって、敵がいない とか、誰もあなたを 不当に扱わない というわけではない。
敵は いる。
あなたを 不当に扱う人々もいる。

しかし、不当に扱われてもいいから、利口に なってはいけない。

この点を よく見ることだ。
不当に扱われてもいいから、利口になってはいけない。
不当に扱われてもいいから、不信を抱かず、信を失わない。
これこそ 何にも代えがたく 貴重なものだ。

たとえ 他人にだまされようと、これほど貴重なものはない。


いったい私たちの 心はどう機能するか。
たとえば、ひとりの人間に だまされると、人類全体が悪者になってしまう。
不正直な人間が ひとりいると、あるいは 不正直のように 思 え る と、もう人間が まったく信じられなくなる。
人類全体が 不正直になる。

けちなユダヤ人が ひとりいたら、ユダヤ民族 全体が けちになる。

偏狭なイスラム教徒が ひとりいたら、イスラム教徒 全体がそうなる。

たった ひとりで、信頼が すっかり失われてしまう。

エスいわく、
「たとえ皆が 不正直でも、信を失ってはならない。
たとえ不正直な人々に 何をだまし取られようとも、信ほど貴重なものは何もない」。

実際、信の喪失こそ、真の意味での喪失だ。
それ以外に 喪失はない。


だから、そういう無垢な人々には、こうした技法で充分だ。
それ以上のものは 必要ない。

誰かに 何かを言われれば、“それ” が 起こる。
師に 言われただけで、多くの人間が光明を得ている。
でも それは、現代ではなく 過去のことだ。


こんな話を聞いたことがある。
臨済が 小屋の中で眠っていた。

彼は たいへん貧しい僧だった。
貧しいサニヤシンだった。
乞食だった。

そこへ泥棒が入ってきた。
小屋には 何もなかったーーー彼の使っている 上掛(うわがけ)のほかは。
彼は 床の上に寝て、その上掛に くるまっていた。

さて 臨済は 泥棒を見て 気の毒に思った。
そして 考えた、
「何て 間の悪い男だ。 遠くの村から 何か目当てにやってきたのに、この小屋ときたら 何ひとつない。
あわれなことだ。
どうやって 助けてあげよう。
あるものといえば この上掛だけだ」。

でも 彼はそれに くるまっていた。
いくら泥棒でも、それを さらっていくような度胸はない。

そこで彼は 上掛から抜け出して、片隅の暗がりに すべりこんだ。

泥棒は その上掛を取って、消え去った。

その夜は たいそう寒かった。
でも臨済は 幸福だった。
泥棒に 物をもたせてやれたからだ。


それから彼は 小屋の窓辺に座った。
夜は寒かった。
空には 満月があった。
そこで 彼は俳句を詠んだ。
いわく、
「 盗人の 取り残したる 窓の月 」。

この 心だ。
いったい 彼は何を失ったか。

ただの 上掛だ。

そして 何を得たか。

世界 全体だ。
およそ手に入れられるものすべてだ。
彼の得たもの、それは 無垢であり、信であり、愛だ。


こんな人間だったら、技法は いらない。
その師は こう言うだけだ、
「いいか。気づくんだ。覚醒しろ」。
それで 充分だ。



------- 第二の質問

「無意識的な心(マインド)の指示と、内なる導き手の指示は、どう区別したらいいでしょう。
どうしたら、内なる導き手が働いていると わかるでしょうか」。


5️⃣へ 続く