saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

OSHO「存在の詩」第八話 鏡になる

Pp458ー461  (以下略)

「第八話 鏡になる」

 

詩は また続きます・・・

『 木の根を断たば葉は枯れん

   汝の心の根を断たばサムサーラは崩れん

   いかなる灯(ともしび)の光も 一瞬にして

   長きカルパの闇を払う

   心の強き光ただ一閃なれど

   無知なるヴェールを焼かん

 

   心に執着せる者の

   心を越えたる真理を見ることなく

   ダルマを行ぜんと求むる者の

   行を越えたる真理を見出すことなし

   心と行をふたつながら越えたるものを知らんには

   人はきっぱりと心の根を断ち切りて

   裸眼をもちて見つむべし

   しかして人は 一切の差別を打ち破り

   くつろぎにとどまるべし 』

 

 

 選択こそ 束縛だ。

 無選択は 自由だ。

何かを 選んだその瞬間、もう あなたは〈世間〉の罠に はまっている。

もしあなたに  選   ぶ  という 誘惑に耐えることができれば、もし 無選択なまま 醒めていることができれば、その罠は ひとりでに消え失せる。

なぜなら、選択しない ということは、その罠がそこに存在するのに 手を貸さない ということだからだ。

 

 その罠も やはり、 あなたの選択によって つくり出されたものなのだ。

そこで、この〈選択〉という言葉が 深く理解されなくてはならない。

その理解を通って はじめて、あなたの中に〈無選択〉という花が 開き得るからだ。

 

 なぜあなたは 選ぶ ということをしないままで いられないのだろうか ? 

なぜ、ある人間や ある物を見た瞬間、自分で選んだ ということさえ 知らぬ間に、〈選択〉の 微妙な波があなたの中に はいり込んでしまうようなことが 起こるのだろうか ? 

 

 ひとりの女性が 通る。

と、 あなたは「彼女はきれいだ」と 言う。

あなたは 自分の選択について 何も言ってはいない。

が、 選択は はいり込んでいる。

というのも、ある人を きれいだ と言う ということは、自分は彼女を  選   び   た   い  ということだからだ。

実際には 奥深いところで 選択しているのだ。

あなたは すでに罠にはまっている。

種子は 畑に落ちた。

やがて芽が出、 苗と なり、一本の木と なるだろう。

 

 あなたが この車は 素敵だ と 口に出したその瞬間、もう選択は しのび込んでいる。

自分では、その車が欲しい という選択を したことに、全然 気づいていないかもしれない。

しかし、心の中には ひとつの夢が しのび込んでいる。

ひとつの欲望が 湧き起こっている。

あるものが きれいだ と口に出すとき、あなたはそれを 手に入れたい と言っているのであり、あるものが 醜い と 口に出すときは、それが 欲しくない と 言っているのだ。

 

 選択は 微妙だ。

人は それについては ごく厳密に 醒めていなくてはならない。

何か あることを口に出して 言うときには、必ず これを心にとめておきなさい。

それを 口に出す ということは、ただ口に出すということ、単に しゃべる ということではなく、無意識の中では 何かが 起こっている。

 

 これは きれいで あれは汚いだの。

これは 善くて あれは悪いだの、区別を しないこと。

区別は いらない。

離れているのだ。

ものごとは 善くも悪くもない。

善だの 悪だの という性質は あなたによって持ち込まれたものだ。

ものには きれいも 汚いも ない。

それは ただあるがままに そこにあるだけだ。

きれいだの 汚いだのという 性質は、あなたによって持ち込まれたものだ、それは あなたの解釈だ。

 

 あなたが ある物を美しい と言うとき、それは どういう意味だろう ?

何か 美しさの規準になるようなものが あるだろうか ? 

あなたは それが 美しいということを 証明できるだろうか ? 

あなたの すぐ脇では、誰かが それを醜いと 思っているかもしれない。

つまり、それは全然 客観的なものじゃない。

誰も 何ひとつ 美しいと証明など できはしない。

 

   以下 略・・・

 

「第九話 自分の靴ひもをひっぱって空に昇れるか ? 」に つづく・・・

「存在の詩」OSHO (OEJ Books) 17

Pp452ー454

(…ひとつだけ 覚えておきなさい。

 “ ゆったりと自然であれ ” ーーー。

 無理をしたり、自分の実存の中に緊張を つくろうとしたりしないこと。 リラックス だ )

 

第七話「あのね それ両方もらうよ !」(17)

 

『 間もなく汝はマハムドラーにたどり着き 』

 

ゆったりと 自然にしていれば、間もなく あなたは、存在との オーガズミックな絶頂に至るだろう。

 

『 無達成なるものを達成せん 』

 

 そして、あなたは「達成され得ざるもの」を達成する。

なぜだろう ? 

なぜそれが 達成され得ない と 言うのだろう ? 

なぜなら、それはゴールにはできないものだからだ。

それは 目標指向の心 (マインド)では 達せられない。

それは達成心によっては 達成され得ないのだ。

 

 ここにも、達成心にはやる 同様の輩が なんと多いことか。

彼らは つ   っ   ぱ   っ   て いる。

目標にできるはずのないものを 目標に据えたからだ。

それは あなたに 起   こ   る のだ。

 達   成  できる ものじゃない。

それに手を伸ばすことは できない。

それのほうが あなたのところへ や   っ   て   来   る のだ。

あなたは ただ受け身で、ゆったりと自然にして、そして、しかるべきときを待つことが できるだけだ。

 

 なぜなら、なにごとにも その時機というものがあるからだ。

 そ   れ  は その時機に起こるだろう。

なんで 急ぐ ? 

もし あせったら、あなたは つ   っ   ぱ   っ    て しまうだろう。

そうしたら、あなたは 絶えず 期待してばかりいる。

だからこそ ティロパは 言う。

“ 無達成なるものを達成せん ” 。

 

  そ   れ   は ゴールじゃない。

あなたは それを、さあ行くぞ とばかり標的にすることは できない。

それは 矢のように 到達できるものじゃないのだ。

違う。

目標に向かって 放たれた心は 緊張の心だ。

 

  そ   れ   は あなたに 用意のできたとき不意にやって来る。

音さえ 聞こえない。

それは 突然やって来るのだ。

あなたには それが来ていることさえも わからない。

それが花開くと、 突然、 あなたは その開花を見、その芳香に 満たされる。

 

Enough for today ? 

( 今日は これぐらいでいいかな ?)

 

第七話 「あのね それ両方もらうよ !」(17) おわり・・・

「存在の詩」目次、

講話   OSHO

翻訳   星川   淳

発行者   江谷信壽

発行所   OEJ Books 株式会社

発売所   株式会社 めくるまーる

 

「存在の詩」OSHO (OEJ Books) 16

Pp450ー452

第七話「あのね それ両方もらうよ !」(16)

 

『 労なくして

   ゆったりと「自然なる境地」にとどまるならば 』

 

 それに、彼は そう言わないわけには いかない。

なぜなら 彼は、ゆったりとした 自然な境地につくからだ。

妻や 子供たちから逃げ出すことは 自然じゃない。

まして、全く ゆったりなんかじゃない。

妻や 子や 友や世間を 後にする人間は、緊張するだけで ゆったりとはできない。

捨てようという まさにその努力の中に、緊張が しのび込む。

自然である ということは、どこであれ 自分が 今いるとわかった  そ   こ   に   い   る  ということだ。

 

 もしあなたが 夫であるのならーーーそれもいい。

もしあなたが 妻であるのならーーービューティフルだ。

もしあなたが 母親であるのならーーー結構だ。

そうでなくちゃいけない。

それが なんであれ 自分が今いる 場   所を、今の自分を、そして自分に起こっていることのすべてを 受   け   容   れ   て ごらん。

それで はじめて、あなたは「ゆったりと自然に」なれる。

さもなければ、それは空念仏にしかすぎない。

あなた方の いわゆる僧侶や サドゥー、つまり世間から 逃れた人たち。

あちこちの 寺院におわす、実際には 臆病者にしか すぎない人間たちには、ゆったりと自然であることなんか できない。

彼らは  つ   っ   ぱ   っ   て いる ほかない。

彼らは ある不自然なことを しでかした。

自然な流れに 逆らったのだ。

 

 そう、何人かの人々にとっては それが自然であり得る。

私は 別に自分を市場にしばりつけろと 言っているわけじゃない。

そんなことをしたら 反対の極端を やることになるからだ。

そうしたら、あなたは またまた同じ愚を犯す。

何人かの 人たちにとっては、僧院に いるのは 完全に自然なことであるかもしれない。

そういう人たちは 僧院にいなくてはいけない。

何人かの 人たちにとっては、山に こもるのが完全に自然なことであるかもしれない。

そういう人は 山にいなくちゃいけない。

 

 判断の ものさしとして 心 (マインド)に とめるべきは、「ゆったりと自然で」あることだ。

もしあなたが 市場にいて 自然なら、ビューティフルだ。

市場も また神聖なり。

もしあなたが ヒマラヤにいて ゆったりと自然に感じるのなら、ビューティフルだ。

どこも おかしくない。

ひとつだけ 覚えておきなさい。

 “ ゆったりと自然であれ ” ーーー。

 

 無理をしたり、自分の実存の中に緊張を つくろうとしたりしないこと。

リラックス だ。

 

 

第七話「あのね それ両方もらうよ !」

(16)おわり (17)へ つづく・・・

「存在の詩」OSHO (OEJ Books) 15

Pp441ー450

「あのね それ両方もらうよ !」(15)

 

『 はかなきかなこの世

   幻や夢のごと、そは実体を持たず

   そを捨てて血縁を断てよ 』

 

 この言葉ーーー“ そを捨てて血縁を断てよ ”。

これが 誤解されてきたところだ。

それには わけがある。

ん ? というのは みんな世捨て屋ばかりだからだ。

そして、彼らは ティロパが、自分たちの信じていることを 言ってくれていると思ったのだ。

ティロパに そんなことを言えるはずがない。

それではティロパの方向と 全く 逆だからだ。

 

 もし それが夢のようなものだったら、それを捨てる意味がどこにある ? 

現実(リアリティ)なら捨てることができるが、夢は 捨てられない。

それは あまりにも愚かしい。

実体のある世界なら 捨てることができるが、幻の世界は 捨てられない。

 

 朝、あなたは大々的に宣言するだろうか ? 

屋根のてっぺんに登って行って、まわり中のみんなに「私は夢を捨てました !」と 言うだろうか ? 

「ゆうべは いろいろな夢を見たけれど、私はそれを捨てました」と ? 

みんな笑うだろう。

みんな あなたは気が 狂ったと思うだろう。

夢を捨てる人なんか 誰もいない。

ただ単に 目を覚ませば それで済む。

夢を捨てる人なんか 誰もいない。

 

 ある禅のマスターが ある朝 起きると、その弟子のひとりに尋ねた。

「わしは ゆうべ ある夢を見たのだが、それが何を意味するものか、ひとつ解釈してはくれまいか ?」と。

その弟子は 言った、「お待ちなさい。お茶を一杯 持って来てあげましょう」。

マスターは それをいただいてしまうと 聞いた。

「さあ、夢の話は どうした ?」。

弟子 曰く、「そんなこと お忘れなさい。夢は夢ーーー。解釈の必要なんか ありません。

お茶 一服で十分です。目をお覚ましなさい」。

 

 マスターは 言った。

「よろしい。 完全に正解だ。

もし私の夢を 解釈などしていたら、私は お前を寺から 追い出すところだった。

夢を解釈するなど 愚か者しかやらないことだ。

お前は よくやった。

さもなければ、きれいさっぱり ほっぽり出されて、二度とわしの顔など拝めないところだった」と。

夢を見たら お茶を一服して、それで おしまいにすることだ。

 

 フロイトユングアドラーは、この話を知っていたら大層 肝を冷やすところだったろう。

彼らは 他人の夢を解釈することに 一生を費やしたのだからーーー。

夢は 超えられなくてはいけない。

単に それを夢と 知りさえすれば、あなたは それを超越する。

これが 本当の〈放棄〉だ。

 

 世の中に あまりにもたくさんの放棄屋や非難屋がいるために、ティロパは ずっと誤解されてきた。

みんな ティロパが 世を捨てろ と言っていると思ったのだ。

彼は そんなことを言っていたんじゃない。

彼は「それを はかないものと知れ」と 言っていたのだ。

そして、これが本当の〈放棄〉だ。

“ そを捨てて ”という言葉で彼は、それが夢だということを 知れ と言っているのだ。

 

『 血縁を断てよ 』

 

 いままで それは、家庭を去り、親族を後にすることだ と 考えられてきた。

母親を、父親を 子供をーーー。

そうじゃない。

彼は そんなことを 言っているんじゃない。

言えるはずがない。

 

 そんなことを言うのは ティロパには不可能だ。

彼が 言っているのは、人々との 内なる関係を放棄しろ ということだ。

ある人を 自分の妻だなどと 考えるべきじゃない。

「自分の もの」という それが幻想だ。

それは 夢だ。

この子は私の息子だ などと言うべきじゃない。

その「私の」というのが 夢なのだ。

 

 あ   な   た   の   も   の  である人なんか 誰もいない。

いるはずがない。

誰かが 自分のものである という こういう態度を捨てること。

夫、妻、友人、敵ーーーこういう態度を すべて捨てるのだ。

私の だとか あなたの だとか、そういう言葉を はさまないこと。

そんなものは 落としなさい。

 

 突然、そういう言葉を 落としたなら、あなたは 血縁を捨てている。

誰ひとり あなたの ものなんかじゃない。

だからといって それは、逃避するーーー自分の奥さんから 逃げ出す という意味じゃない。

その逃亡自体、あなたが 彼女を 実体あるものと 思っていることを表わしている。

逃亡は、あなたがまだ 彼女を自分のものだと 考えていることを 表わしている。

そうでなければ、なんで逃げ出したりする ? 

 

 あるとき、 一人のヒンドゥー教徒のサニヤシン、スワミ・ラムティルタが アメリカから帰って来て、彼は ヒマラヤに こもっていた。

そこへ 彼の奥さんが 彼に会いにやって来た。

彼は 少しかき乱された。

その弟子で、とても鋭い心の持主である サッダル・ポン・シンが 彼の脇に坐っていた。

彼は見ていて  ラムが乱されているのを感じた。

 

 奥さんが 帰ってしまうと、突然、ラムティルタは そのオレンジ色の衣を 投げ捨てた。

ポン・シンは、

「どうしたんです ?  私は あなたが少しかき乱されているのを 見ていました。

私は あなたがいつもの あなたじゃないのを感じていました」と 聞いてみた。

すると彼は 言う。

「だから この衣を脱いでいるんだ。 私は実に大勢の女に出会ってきたが、一度も乱されたことなどなかった。

彼女が 私の妻だった ということ以外には、あの女に 特別なところは何もない。

その『私の』」が いまだに残っているのだ。

私は こういう衣を着る 資格がない。

私は まだ『私の』を 捨てていない。

私が捨てたのは『妻』でしかない。

そして、『妻』は問題じゃない。

ほかの女は 一度だって 私をかき乱したことなど なかった。

私は 地球をくまなく歩きまわった。

だが、 妻が来ると どうだーーー。

彼女は ほかのどんな女とも変わるところのない 普通の女だ。

ところが突如として 私は乱された。

『私の』という橋が まだそこにあるのだ」

 

 彼は 死ぬまで 普通の服のままだった。

二度と オレンジ色を使わず、自分には その資格がない と 言っていた。

 

 ティロパには、妻だの 子供だのという血縁を切れ などと 言えるはずがない。

違う。

彼が 言っているのは その〈橋〉を捨てろ ということだ。

それを 落としなさい。

それは あなたの仕事だ。

奥さんには 関係ない。

もしも 彼女が、あなたのことを 自   分   の   夫 だ と 思い続けるとしても、それは 彼女の問題であって あなたの問題じゃない。

もし息子さんが、あなたを 自分の父親だと思い続けるとしても、それは 彼の問題だ。

彼は まだ子供だ。

彼には 成熟が 必要なのだ。

 

 はっきり 言っておこう。

ティロパが 言おうとしているのは、内なる〈夢〉や〈橋〉を放棄することだ。

内なる 世間をーーー。

そして “ 山林に入りて瞑想せよ ” これもまたしかり。

彼は 山や森に 逃げて行けと 言っているんじゃない。

これは そういうふうに注釈され、大勢の人が 妻子を後にして 山にはいってきた。

それは 完全な 間違いだ。

ティロパが 言っていることは もっと深い。

それは そんなに浅薄なことじゃない。

それというのも あなたは 山にはいって、しかも 市場に い続けることだってできるからだ。

問題なのは あなたの 心 (マインド)だ。

あなたは ヒマラヤに坐っていたって、市場のことを 考えかねない。

妻、子供、そして彼らに何が起こっているかーーー。

 

 あるとき ひとりの男が、妻や子供や家族を捨てて、弟子としてイニシエーションを受けようと、ティロパのもとにやって来た。

ティロパは町の外の とある寺院に立ち寄っていた。

そこへ くだんの男がやって来る。

中にはいったとき 彼はひとりきりだった。

そしてティロパもひとりだった。

と、ティロパは 彼のまわりを 見まわして言った。

「あなたが来たのは それでいいが、この人垣はどういうことだ ?」

その男は 思わず振り返った。

誰もいないはずだった からだ。

 

 「後ろなんか見るんじゃない。 内を見るんだ。 人垣はそこにある」と ティロパ。

そこで男が 目を閉じると、人垣は 本当にあった。

妻は まだ泣き叫び続けている。

子供たちは 涙を流して 悲しがっている。

彼らは そこに立っていた。

彼らは 町のはずれまで見送りに来たのだった。

友人、家族、そのほかの人たちーーーその彼らが みんないた。

するとティロパは 言い放った。

「出てお行き。 その人垣を置いてくるのだ。 私が弟子入りさせるのは個人だ。 人垣じゃない」。

 

 いや、そのティロパが、世間を捨てて 山にはいれなどと 言えるはずがない。

彼は そんなに馬鹿じゃない。

彼には そんなことは 言えない。

彼は 目覚めた人間だ。

 

 彼が 言おうとしているのは こういうことだ。

もし〈夢〉を、〈橋〉を、血縁関係ではなく 関係そのものを放棄したら、もし〈心(マインド)〉を 放棄したら、突然、あなたは 森や山の中にいる。

あなたは 市場の真ん中に 坐っているかもしれない。

が、 その市場が消え失せてしまう。

あなたは 自分の家に いるかもしれない。

が、 その家が消え失せてしまう。

突然ーーーあなたは 森の中に、山の中にいる。

突然、あなたは ひとりぼっちだ。

そこには あなただけ。

ほかに 誰もいない。

人ごみの 真ん中にいながら ひとりでいることはできる。

ひとりで、しかも 人ごみの中にいることはできる。

あなたは 世間にいながら、しかも山や森に属することもできる。

 

 これは 内的な現象だ。

内なる山々や 内なる森林というものがある。

ティロパには、外の山や森について とやかく言えるはずがない。

それもまた 夢なのだからーーー。

ヒマラヤは プネーの市場と同じだけ 夢なのだ。

なぜなら、ヒマラヤも 市場と同じだけ 外なる現象なのだからーーー森林もまた ひとつの夢だ。

 

 あなたは 内なるものへと 足を踏み入れなくてはいけない。

現実 (リアリティ)は そこにある。

もっともっと深く、あなたの 実存の深みへと 降りて行かなくてはならない。

それでこそ、あなたは 本当のヒマラヤに行き着くだろう。

それでこそ、自分の 実存の 本当の森林に行きあたるだろう。

あなたの 実存の頂と谷間に。

あなたの 実存の高みと深淵にーーー。

ティロパの 言おうとしているのは それだ。

 

 

「あのね それ両方もらうよ !」

(15)おわり (16)へ つづく・・・

「存在の詩」OSHO (OEJ books) 14

Pp436ー441

(…あなた方は あまりにも安全性にこだわりすぎている。 そして、安全への過剰なこだわりは 死につながるものだ。 生というのは安全じゃないのだからーーーそれは そうなのだ。  それについてどうすることもできない。  誰もそれを安全にすることなんかできない。  安全性などというのはすべて幻想だ )

 

第七話「あのね それ両方もらうよ !」(14)

 

 一人の女性が 今日から あなたを愛する。

明日は・・・誰が知る ? 

どうして明日のことに 安全でいることなんかできる ? 

あなたは 法定に行って 登録し、彼女が 明日もまた自分の妻でいる という法的な拘束をかけるかもしれない。

もしかしたら 彼女は、その法的な拘束によって あなたの妻でいるかもしれない。

だが 愛は 消え去り得る。

愛は 法律なんか知らない。

そして 愛が消え失せていながら、妻が妻でい、夫が夫でい続けるとき、その ふたりの間にあるものは 死だ。

 

 安全のために、我々は 結婚をつくる。

安全のために、我々は 社会をつくる。

安全のために、我々は いつも決められた道の上を進む。

生は 野生だ。

愛は 野生だ。

そして神は 絶対的に野生だ。

〈彼〉は 決して、あなた方の つくった〈庭〉に はいって来はしない。

〈彼〉は 決して、あなた方の〈家〉になんか はいって来ない。

そんなものは 小さすぎる。

あなた方の お決まりの道の上では、決して〈彼〉に 出会うことなんかできない。

〈彼〉は 野生だ。

 

 覚えておきなさい、タントラは 生は野生だ と言う、 人はそれを すべての危険と困難を冒して 生きなくてはならない。

そして それは 素晴らしいことだ。

そのとき、そこに 冒険があるのだからーーー。

 

 自分の人生を 決まり切ったパターンに はめ込もうとしないこと。

それ が それ自身のコースを取るのを 許すのだ。

すべてを 受け容れなさい。

受容を通して 二元性を 超えなさい。

そして、生が それなりの進路を取るのを 許すのだ。

そうすれば あなたは たどり着くだろう。

必ず たどり着くだろう。

この 必ず というのは、あなた方を 安心させようとして言っているわけじゃない。

それが 事実だからこそ 言うのだ。

これは あなた方の 安全性の保証じゃない。

野生の者は 必ず たどり着くのだ。

 

 

『 はかなきかなこの世

   幻や夢のごと、そは実体を持たず

   そを捨てて血縁を断てよ

   欲望と憎しみの糸を切り

   山林にありて瞑想せよ

   労なくして

   ゆったりと「自然なる境地」にとどまるならば

   間もなく汝は マハムドラーにたどり着き

   無達成なるものを達成せん 』

 

 この経文は とても深く 理解されなくてはならない。

なぜなら、誤解があり得るからだ。

ティロパの この経文に関しては、いままで 多くの誤解が あった。

それどころか、私以前に 注釈をした人たちは全部、肝心なポイントを逸してきた と 言ってもいい。

それにはわけがある。

 

 この経文は言う

『 はかなきかなこの世 』

 

 この世界は、夢がつくられているのと 同じ材質で できているにすぎない、 と。

夢と この世と、そこには なんの違いもない。

起きていても 眠っていても、あなたは 自分だけの 夢の世界に生きている。

覚えておきなさい、世界は ひとつだけじゃない。

この世には 人がいるのと同じ数だけ たくさんの世界があるのだ。

誰もが みな自分だけの世界に 生きている。

ときとして、我々の世界は 出会いぶつかる。

ときとして、それは 溶け合う。

ん ? でも、我々は 自分の世界に 閉じ込められたままなのだ。

 

『 はかなきかなこの世ーー心の創作ーー

   幻や夢のごと、そは実体を持たず 』

 

 これは 物理学者たちの言うところでもある。

それは なんの実体も持たない。

ほんのここ 三〇〜四〇年の間に、「物質」という言葉は、物理学者のボキャブラリーから 完全に消え失せてしまった。

七五年前、ニーチェは 神は死んだ と宣言した。

それも、彼が それを言ったのは 物質しか存在しない ということを強調するためだ。

ところが、それから 一世紀もたたないうちに、いやニーチェの死後 たった二五年でーーー彼は 一九〇〇年に死んだーーー

一九二五に 物理学者たちは こういう理解に達した。

我々は 神のことは何も知らないが、ただひとつだけ確かなことがある。

物質は 死んだ、と。

 

 あなた方の まわりには 物質的なものなんか 何もない。

すべては ただの 波動(バイブレーション)だ。

交錯する たくさんの 波動(バイブレーション)が〈もの〉という幻覚を 生み出す。

それは 映画を見るのと 同じことだ。

スクリーンの上には 何もない。

あるのは 交錯した電気光線だけだ。

それが あれだけの幻覚を つくり出す。

しかも、いまでは 三次元映画というものまで 現れた。

それは 完璧な 三次元の幻覚をつくり出す。

 

 全世界は スクリーンの上の映像と 全く同じだ。

なぜなら、それは すべて電気現象にすぎないのだからーーーただ あ   な   た だけが本物だ。

ただ その観照者だけが 本物であり、あとは すべて夢なのだ。

そしてブッダフッドとは、こうした 一切の夢を あなたが超越し、そこに 見られるべき何ものも  残らない、 ただ  見る者だけが 静かに坐るーーーそういう状態を 言う。

 

 何も ない。

見られるべき どんな対象もない。

ただ  見   る   者  だけが 残る。

そのときこそ、あなたは ブッダフッドに 到達している。

現実 (リアリティ)にーーー。

 

第七話「あのね それ両方もらうよ !」

(14)おわり (15)へ つづく・・・

「存在の詩」OSHO (OEJ Books) 13

Pp432ー436

第七話「あのね それ両方もらうよ !」(13)

 

『二元性を超ゆるは王の見地

   散乱を征服するは王者の行(ぎょう)

   行(ぎょう)なき道こそすべてのブッダたちの道なり』

 

 稽古するべきものなど何もない。

習慣をつくり出すのは〈稽古〉だからだ。

人は もっと 覚   醒 すべきなのであって、もっと 腕   を   上   げ  る べきなんじゃない。

美しいものは 自然な内発性から 起こる。

上達からじゃない。

 

 あなたは 愛を習い覚えることもできる。

何らかの トレーニングを積むこともできる。

アメリカでは いくつか、愛のためのトレーニングコースをつくることが考えられている。

人々が どうやって愛するか ということすら 忘れてしまったからだ。

これは 本当に おかしい。

鳥や けものたちや 木々でさえ、聞きもせず、学校に行きもしないで ちゃんと愛する。

それなのに 人間はといえば、大勢の人が 私のところヘやって来て・・・

 

 つい数日前、ひとりの若者が手紙をよこした。

彼はその中で、「あなたの おっしゃることはわかります。 でもどうやって 愛するのですか ?   どうやって 前に出るのですか ?  どうやって女性に 接近するのですか ?」と 言う。

馬鹿ばかしいような話だ。

だが、我々は 自然でゆったりとしたやり方を 完全に忘れてしまったのだ。

愛ですら トレーニングなしでは 不可能だとはーーー。

 

 しかし、もし仕込まれたりしたら、あなたは全く 醜悪になってしまうだろう。

そうしたら あなたのやるあらゆることは、そのトレーニングの切れはしでしかないからだ。

それは 本物じゃあるまい。

それは 演技だ。

真実の生じゃあるまい。

それは ちょうど俳優たちそっくりだろう。

彼らは 愛をでっちあげる。

彼らは 愛にあふれた動作をする。

しかし、愛というものに関する限り、俳優たちこそ 最大の失格者であるのをご存知だろうか ?  

彼らの愛情生活は ほとんど常に破産だ。

 

 これは あり得べからざる話だ。

二十四時間、彼らは大変な数の女性たちと、数えきれない筋書きで、いろいろ違った趣の 稽古をいるのだからーーー彼らは プロの愛人だ。

恋に落ちたら 彼らは完璧でなくてはいけない。

ところが、恋に落ちたら最後、彼らは常に破綻する。

俳優たちの愛情生活は 常に破産だ。

どういうことだろう ? 

 

〈稽古〉だ。

稽古しすぎたのだ。

もう ハートが働かない。

彼らは ただ中身のないジェスチャーを し続けるだけだ。

キスをするーーーだが そこに本当のキスはない。

ただ 唇が くっつくだけだ。

唇だけしか 出会わない。

内的なエネルギーの移動は そこにない。

彼らの唇は 閉ざされていて 冷たい。

もしも 唇が冷たく閉じていて、そこからエネルギーが放出されていなかったら、キスほど 醜いものはない。

不衛生だ。

それは ただ何百万という 細菌や黴菌(ばいきん)や 病原菌の移動にすぎない。

それだけだ。

 

 キスも、もし 内的なエネルギーが介在しなければ 醜いものだ。

女を、あるいは男を 抱くことはできても、唇がぶつかり、からだが からまるばかりで、そこに内的なエネルギーの跳躍はない。

エネルギーが 存在しないのだ。

ただ 中身のないジェスチャーを しているだけのこと。交わることだってできないことじゃない。

 

 あなたは あらゆる愛の動作を することもできる。

しかし、それは体操と 言ったほうが似つかわしく、あまり愛とは 言い難い。

覚えておきなさい、稽古は 生を殺す。

生というものは、稽古されないほうが もっと生き生きしているものだ。

それが どんなパターンも持たず、どんな強制された規律もなしに、あらゆる方向にあふれるほうがーーー。

すると それは それなりの秩序と規律を持つ。

 

 そして

『 行(ぎょう)なき道こそすべてのブッダたちの道なり

   その道を踏む者、ブッダフッドに至らん 』

 

 さあ どうする ?   もし 修行なしが 道ならば、そのときはどうする ? 

そしたら、ただ 自然発生的に 生きなさい。

なんで 恐れる ⁉

なぜ 自発的に生きることを そんなに怖がる ? 

もちろん危険は あるかもしれない。

難儀も しなければなるまい。

でも、それでいいじゃないか ! 

生というものは 鉄道線路みたいなものじゃない。

汽車なら 入れかわり立ちかわり 同じ線路の上を 何回も何回も走る。

生は 川のようなものだ。

それは 自分で自分の道を つくっていく。

それは 水路じゃない。

水路は うまくない。

水路といえば習慣の人生の ことだ。

 

 危険は ある。

だが、生は 危険なものだ。

危険は 生に含まれているものであって、それを知らなくていいのは 死んだ人だけだ。

人々が死んだみたいになってしまうのは そのせいだ。

あなた方の家は 墓場と 言ったほうが似つかわしい。

 

 あなた方は あまりにも安全性に こだわりすぎている。

そして、安全への過剰なこだわりは 死につながるものだ。

生というのは 安全じゃないのだからだーーーそれは そうなのだ。

それについて どうすることもできない。

誰も それを安全にすることなんかできない。

安全性などというのは すべて幻想だ。

 

 

第七話「あのね それ両方もらうよ !」

(13)おわり (14)ヘ つづく・・・