saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

OSHO「存在の詩」第八話 鏡になる

Pp458ー461  (以下略)

「第八話 鏡になる」

 

詩は また続きます・・・

『 木の根を断たば葉は枯れん

   汝の心の根を断たばサムサーラは崩れん

   いかなる灯(ともしび)の光も 一瞬にして

   長きカルパの闇を払う

   心の強き光ただ一閃なれど

   無知なるヴェールを焼かん

 

   心に執着せる者の

   心を越えたる真理を見ることなく

   ダルマを行ぜんと求むる者の

   行を越えたる真理を見出すことなし

   心と行をふたつながら越えたるものを知らんには

   人はきっぱりと心の根を断ち切りて

   裸眼をもちて見つむべし

   しかして人は 一切の差別を打ち破り

   くつろぎにとどまるべし 』

 

 

 選択こそ 束縛だ。

 無選択は 自由だ。

何かを 選んだその瞬間、もう あなたは〈世間〉の罠に はまっている。

もしあなたに  選   ぶ  という 誘惑に耐えることができれば、もし 無選択なまま 醒めていることができれば、その罠は ひとりでに消え失せる。

なぜなら、選択しない ということは、その罠がそこに存在するのに 手を貸さない ということだからだ。

 

 その罠も やはり、 あなたの選択によって つくり出されたものなのだ。

そこで、この〈選択〉という言葉が 深く理解されなくてはならない。

その理解を通って はじめて、あなたの中に〈無選択〉という花が 開き得るからだ。

 

 なぜあなたは 選ぶ ということをしないままで いられないのだろうか ? 

なぜ、ある人間や ある物を見た瞬間、自分で選んだ ということさえ 知らぬ間に、〈選択〉の 微妙な波があなたの中に はいり込んでしまうようなことが 起こるのだろうか ? 

 

 ひとりの女性が 通る。

と、 あなたは「彼女はきれいだ」と 言う。

あなたは 自分の選択について 何も言ってはいない。

が、 選択は はいり込んでいる。

というのも、ある人を きれいだ と言う ということは、自分は彼女を  選   び   た   い  ということだからだ。

実際には 奥深いところで 選択しているのだ。

あなたは すでに罠にはまっている。

種子は 畑に落ちた。

やがて芽が出、 苗と なり、一本の木と なるだろう。

 

 あなたが この車は 素敵だ と 口に出したその瞬間、もう選択は しのび込んでいる。

自分では、その車が欲しい という選択を したことに、全然 気づいていないかもしれない。

しかし、心の中には ひとつの夢が しのび込んでいる。

ひとつの欲望が 湧き起こっている。

あるものが きれいだ と口に出すとき、あなたはそれを 手に入れたい と言っているのであり、あるものが 醜い と 口に出すときは、それが 欲しくない と 言っているのだ。

 

 選択は 微妙だ。

人は それについては ごく厳密に 醒めていなくてはならない。

何か あることを口に出して 言うときには、必ず これを心にとめておきなさい。

それを 口に出す ということは、ただ口に出すということ、単に しゃべる ということではなく、無意識の中では 何かが 起こっている。

 

 これは きれいで あれは汚いだの。

これは 善くて あれは悪いだの、区別を しないこと。

区別は いらない。

離れているのだ。

ものごとは 善くも悪くもない。

善だの 悪だの という性質は あなたによって持ち込まれたものだ。

ものには きれいも 汚いも ない。

それは ただあるがままに そこにあるだけだ。

きれいだの 汚いだのという 性質は、あなたによって持ち込まれたものだ、それは あなたの解釈だ。

 

 あなたが ある物を美しい と言うとき、それは どういう意味だろう ?

何か 美しさの規準になるようなものが あるだろうか ? 

あなたは それが 美しいということを 証明できるだろうか ? 

あなたの すぐ脇では、誰かが それを醜いと 思っているかもしれない。

つまり、それは全然 客観的なものじゃない。

誰も 何ひとつ 美しいと証明など できはしない。

 

   以下 略・・・

 

「第九話 自分の靴ひもをひっぱって空に昇れるか ? 」に つづく・・・