saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

問題は 一つだけーーー9️⃣

(…中心とは 宇宙のなかに在るのであって、自分は その 一部分なのだと。)

宗教的な人たちは言う。
「もし神がいるとしたら 神だけが我(われ)という言葉を使うことが許される。
ほかの誰でも我という言葉を使うべきではない。
なぜなら〈実存〉の中心は 一つだけだから」

中心が 無数に在るということはありえない。
宇宙は無数にあるわけでなく たった一つだけだ。
だから 中心があるとしたら 一つしかありえない。

私たちは みんな参加して それを分かちあっている。

私たちには、中心は 自分の内側にあるとは主張することはできない。
禅の人たちは だからこそ言う。
「へりくだるな、ただ我をなくして 無我となれ」と。


へりくだる ということは エゴの仕掛けるトリックだ。
このエゴは けっして低俗なエゴではない。
洗練されて磨きのかかったエゴの 巧妙な策略だ。


エゴには 二つのタイプがある。

低俗なエゴは、教養のない 無教育の野蛮な人のなかに見られ、もう一つの 洗練されたエゴのほうは、上品で磨かれていて 風雅ですらあり、微妙なエゴだ。
なかなか見破るのはむずかしい。
いつも へりくだったポーズをしている。
だが、
その謙虚さや 素朴さは 全て姿勢にすぎない。


そして孔子は 教養ある文明人の頂点にいる。
彼は 教化ということを信じていた。
彼は言う。
「生は 苦しい闘いだから、多くの法則に従わねばならないし、厳しい規律を課さなければならない。
そして 不必要に 他人を刺激してはならない。
エネルギーを保存しておきなさい。
それが必要になる闘いも起こってくるだろうから、誰とでも 闘うようなことは やめなさい。
必要ないことだ。
エネルギーは蓄えておかねばならない。
そうすれば いつか必要になったとき、本当に闘うことができるというものだ。
だが その闘いは、洗練された教養のあるものでなければならない。
座り方、立ち方、動き方、振る舞い方------」


孔子は 闘い方にまで 法則をもっていた。

この世の 何百、 何千万というエゴの只中で、このエゴのジャングルのなかで、人は 自分の道を見つけなければならない。
ゴールに 辿りつきたかったら、そのエゴ 一つ一つと不必要に争うことはない。
ただ 通り過ぎればいい。
誰も その道を邪魔しないように、へりくだった謙虚なやり方で通り過ぎることだ。

こういう孔子の へりくだりは、だから外交的なものでしかない。
政治的でこそあれ、宗教的ではない。


孔子は 宗教的な人ではなかった。
この孔子のために、 中国は 共産主義の犠牲になったともいえる。
孔子が ずっと長い間、中国の中心的な力として とどまったからだ。

たくさんの人が 私にこんなことを訊ねる。
どうして 中国のように宗教的な国が 共産主義の犠牲になったのか? と。

なぜ あのように唯物的な哲学に走ってしまったのか? と。
だが、
これは偶然ではないのだ。
仏陀は 仏教として中国に入っていったし、老師も存在した。
荘子も いた。

しかし 彼らは けっして中心的な勢力には なれなかった。

中心的な力は ずっと孔子でありつづけた。


そして孔子マルクスとは 旅仲間みたいなものであって、互いのあいだに 問題はないのだ。

インドが 共産主義になるのは むずかしいが、中国がなるのは 極めて簡単だ。
しかも あんなに突然に、あれほど急速になることができる。
というのも、孔子的マインドは まったく政治的、外交的であり、唯物的であるからだ。


禅や 道家の人たちは いつも孔子のことを笑っていた。
そして この話は 彼らの味わいあるジョークの 一つだ。
わかるかな?


“ あるとき 孔子は呂梁(ろりょう)の 大滝を見に行った

その滝は 二百尺もの高みから落ちていて
その水しぶきは 十五里先にまで及んでいた
魚や亀ですら そのなかでは生き永らえないほどの激しい水勢である


ところが 孔子は 一人の老人が その滝つぼに入っていくのを見た
きっと幾多の苦しみの末に
みずから生命を 絶とうと望んでいるにちがいない
そう思って 孔子は 弟子の一人を滝の淵に走らせた
老人を救おうとしてのことだ


老人は 百歩ほど離れたところで浮かび上がった
そして 濡れ髪を風になびかせながら
淵に沿って 楽しそうに鼻唄まじりで行く


孔子は 老人の後を追った
そして追いついたとき 訊ねた


私は 何か精霊のようなものを 見たのだと思ったが
やはりあなたは 人間だった
教えていただけないでしょうか?
水を あのようにくぐるには 何か秘訣があるのでしょうか? ”



孔子には、このような大滝に入るということは、ほとんど不可能に思われた。
二百尺という高いところから 流れ落ちる河ーーーその水しぶきは 十何里という遠くにまで広がっている。

そこに老人が 一人水浴びにきた。
河に 水浴びに。


とんでもないことだ!

この滝の とてつもないエネルギーは、たちどころに この老人を殺してしまうだろう。
生きて浮かび上がることなど とてもできるはずがない。
河底に、 岩の間に巻きこまれ、 打ちつけられてしまう。

初め 孔子は この老人が自殺しようとしているのだと思った。
なぜなら この滝つぼからは、とても生きて帰れるはずがない と思ったからだ。

だから彼は 弟子の一人を走らせて 老人を救おうとした。

だが 老人は 飛びこんだ。
そして少し離れた所で また浮かび上がってきた。
生きたままで。
とても 信じられないことだ。


どうしてだろう? 孔子にとって、なぜ それは信じられないようなことだったのか?

それは、孔子が闘争を信じる人間だからだ。

彼は、大自然に合わせて 流れていく秘訣を知らなかった。

この話のなかにある ジョークの部分は まさにこれだ。
つまり 彼は 知 ら な か っ た 。


彼は、泳ぎ方や 規則などは 全部知っていたかもしれない。
が、いかに河と共に 流れるかは知らなかった。

彼は その秘訣である 任(まか)せる ということを知らなかったのだ。

だから彼は 自分の眼を疑いさえした。
老人を 何かの霊かと思った。
物理的な肉体なら 生きて浮かぶはずがない。
そんなことは 全ての法則に反している。


🔟へ つづく