saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

問題は 一つだけーーー🔟

(…物理的な肉体なら 生きて浮かぶはずがない。
そんなことは 全ての法則に反している。)


“ 私は何か 精霊のようなものを見たのだと思ったが
やはりあなたは人間だった
教えていただけないでしょうか?
水を あのようにくぐるには 何か秘訣があるのでしょうか? ”

老人よ、あなたは奇跡をやりとげた。
とても信じられないようなことです。
あのように 水とつき合うには、何かやり方が、秘訣があるのでしょうか?

孔子は単に、方法や 技法やテクニックを、つまり やり方ということを信じてきた人だ。
これは エゴが好んで信じたがるものだ。


私のところへ来る人々のなかで、こんなことを言う人たちがいる。
どうやったら 恋におちることができますか?
やり方があるのですか?

どうやったら恋におちるかだって!

彼らが求めるのは方法であり、テクニックだ。

何を求めているのか、自分には理解できてないとみえる。


恋におちるのに やり方もないし、テクニックも 技法もない。
方法論もない。
だからこそ「おちる」という言葉になっているではないか。
あなたは、制御や コントロールから外れて、まさに お ち て い く のだ。


だから、マインドで ものごとを捉(とら)える人たちは、恋は盲目 と言っている。
彼らは、恋や 愛は 盲目だと言って、あいつは狂ったのだと思う。

理性にとって 愛は 狂気に見えるのだ。
なぜなら、理性というのは 偉大なる操り師だから、何でもコントロールを失ったものは 危険に見える。


だから、孔子も やり方を求めた。

河と どういう風につきあうのですか?
どうやったら 生きて浮かんでこられるのですか?
何か 特別なテクニックがあるにちがいありません。

これは テクニック指向のマインドだ。

世界の 技術文明を生みだす精神だ。


しかし 人間には ハートの世界もある。

そして 人間としての存在や 意識の世界もある。
そこでは 技術や テクノロジーは不可能だ。

技術は 物質に対してだけ可能なのであって、意識の世界に 技術はありえない。

実際 ここではコントロールは不可能だ。
コントロールしようとする その努力、何かを起こそうとする その努力、この 努力そのものは エゴイスティックなものだ。


孔子は、全てを委(ゆだ)ねる ということがあることを知らない。


もしあなたが 河を愛する人だったら、そして河で泳ぎ 遊んできた人だったら、この老人の 言ったことがわかるにちがいない。

私自身 河をとても愛していたから、渦(うず)に巻かれて 河底に落ちていくことが 最高にビューティフルな体験であることを よく知っている。


河には、特に大雨が降って洪水になったときの河には、たくさんの渦巻きができている。

すごい力の、 強い渦だ。
水は その周りを ちょうどスクリューのように回って動く。

もしそのなかに巻きこまれたら、水の力で底に引き込まれる。
そして 深くいけばいくほど渦の力は強くなる。

エゴの自然な傾向としては それと闘おうとするだろう。
それは当然だ。

それは 死を想わせるものだし、エゴは 死を ひじょうに怖れている。
エゴは その渦と 闘おうとする、だが、もしあなたが 洪水の河にできた渦巻や 滝つぼの渦と 闘おうものなら、あなたは 負ける。

渦の力は 途轍もなく強いから、それと闘うことなどできはしない。
力は 役に立たない。


渦に抗って 闘えば闘うほど あなたは弱る。
渦は あなたを引き込みつづけ、あなたはそれを なんとかしようとする。

努力すれば するほど、その分エネルギーが なくなる。
すぐに あなたは 疲れてしまい、渦に巻きこまれて底に 落ちていく。


渦巻現象 というものを よく見るがいい。
水の表面のところでは 渦は大きくなっている。
深く下に 行けば行くほど渦は とても小さくなっていくから、何もしなくても簡単に抜け出られる。

実際 渦のほうが あなたを追い出す。
底に近いところでだ。

もし 水の表面で 闘い始めたら もうお終いだ。
とても生きては戻れない。

私は いろんな渦巻で試してみたが、素敵な経験だった。


このことは、深い瞑想のなかで起こることと まったく同じだ。


11へ つづく