saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「草は ひとりでに 生える」The Grass Grows By Itself by OSHO

第三章 「虚空と僧侶の鼻」 より抜粋 (Pp 110 ー 116)

ーーー略
最初から、あなたは 誰と闘うこともない。

そこでは〈全体〉は あなたのために在り、あなたは〈全体〉のために在る。

そこには 内なるハーモニーが在る。


この道程では、他者を征服しようとする者は 一人もいない。
征服は ここでは不可能だ。

〈全体〉の ある一部が 他の一部を征服するなんて、どうやったらできる?

それにまた、部分が どうやって 全体を征服できようか?
そんな考えは 愚かしい。

悪夢を作りだすだけだ。

状況全体を よく見るがいい。


あなたは、〈全体〉のなかから生まれ出て、またそのなかに溶解していく。
そして それまでの 一瞬一瞬も〈全体〉の 一部でありつづける。

あなたは それを呼吸し、それを生きる。
そして、その〈全体〉は あなたを通して呼吸し、あなたを通して生きる。


あなたの生と〈全体〉の生は けっして別々のものではない。

あなたはちょうど、大海原の 波の一つのような存在なのだ。


ひとたび このことを理解したら、瞑想は可能になる。

ひとたび このことを理解したら、あなたは リラックスする。

あなたは 周りに作りあげた安全のための 鎧を脱ぎすてる。
もう 怖れることはない。

怖れは消え、愛が生まれる。


この愛の境地から 虚空が起こる!

言い換えれば、もしあなたが、虚空が起こることを ゆるしさえすれば、愛は その内で 花ひらく。


愛とは 虚空の花、トータルに開花した虚空だ。

つまり、虚空とは まさに状況であって、愛から虚空、虚空から愛と、その どちらの道を行ってもかまわない。


したがって、宗教には 二つのタイプがある。

一つは、あなたの内部と周囲に 虚空を生じさせ、開花をもたらせるタイプ。
つまり、そういう状況が作られることで、花は 自然にむくむく立ち上がる。
そこに邪魔するものが何もないと知ると、種は あっという間に 花を咲かせる。


これは、あなたの実存のなかで起こる一つのジャンプ、爆発だ。


仏教も禅も この道を辿る。

あなたのなかに、そして周りに虚空を作り出す道がこれだ。


次に、二つめのタイプの宗教、もう一つの道だが、それは、あなたの内に 愛を、献身を生じさせる道だ。


ミーラと チャイタニアも(共にインド教の神格)愛の存在だ。
彼らの〈全体〉へ献げる愛は限りなく深い。

その愛ゆえに、彼らは あらゆるところに自分の愛する者を見出す。

木の葉 一枚一枚の上に、小石 一つ一つの上に 彼らの愛する者の印はある。
愛する者は あらゆるところに見えるのだ。


彼らは踊る!
祝福する以外 何ができよう。

ものみな全て 準備は整っている。
ただ、あなたが 祝福に入っていくだけでいい。
何一つ 欠けてはいない。


バクタ(献身する者)は、愛の人は、ただ 単純に 祝い楽しむ。
そして その愛と祝福のなかで エゴは消えていき、虚空が顕れる。


仏陀や ティロパ、靖居(せつきょ)や ほかの先達のように あなたも 虚空を生みだすか、それとも、ミーラや チャイタニア、そしてイエスのように 愛を生みだすか。


一つが 生まれれば、もう一つは 自然に顕れる。

この二つは、別々に存在することはできない。

この二つは、別々に分たれたものではない。


愛とは 虚空の もう一つの顔、虚空とは 愛の もう一つ別の捉え方にすぎない。

この二つは いっしょに来る。

あなたが 一つをもたらせば、一つを招いて生じさせれば、もう一つは 最初の一つの影となって 自動的についてくる。

全ては あなたしだいだ。


もしあなたが 瞑想の道を辿りたいなら、空(くう)に、空っぽになりなさい。
愛のことなど 構わなくていい。
愛は いまにそれ自らやってくる。

もし 瞑想が むずかしいと感じるなら、愛しなさい。
愛の存在に なるがいい。
そうすれば 瞑想も虚空も ついてくる。


こうであるのも、人間のマインドには 二つのタイプ、女性的マインドと 男性的マインドがあるからだ。

女性的なマインドをもつ人は、愛することは 楽にできるが 空虚になることはむずかしい。
私が 女性的マインドと 言うときには、女性のマインドという意味ではない。

女性でも 男性的なマインドをもつ人は 多くいる。
それに、女性的なマインドをもつ男性も少なくない。


また、私が 女性的なマインドと言うときには、女性的な肉体を意味するのではない。
たとえ女性的な肉体、からだつきを していても、かならずしも女性的マインドの持ち主とは限らない。

女性的なマインドとは、愛を たやすく感じられるようなマインド、それだけのことだ。

それが、女性的なマインドの 私の定義だ。
愛を 楽に自然に感じることのできる人、それが 女性的マインドをもつ人だと言える。


男性的なマインドは、愛することが 一種の努力になってしまうマインドをいう。

愛することもできるのだが、愛することを し な け れ ば な ら な い マインドだ。
愛は その人の 存在全体とはなりえずに、ただ 一部分としてあるにすぎない。
これは男性的なマインドだ。

そういう人にあっては、愛は 最も大切なものではなく、いくつもあるもののなかの 一つにすぎない。


彼らは科学のために 愛を犠牲にできる。
国のために 愛を犠牲にできる。
ちょっとした つまらないことのために 愛を犠牲にできる。
ビジネスのために、お金のために、政治のために。

男性的なマインドにとっては、愛とは、それほど 深 い 何 か ではない。

愛は、女性的マインドには 努力のいらないものだが、男性的マインドは そうはいかない。
瞑想の方が 楽だ。
彼らには、空虚になる方が ずっとたやすい。


したがって、私の定義は こうなる。

もし、空虚に、無心になることが あなたにとって楽だったら、それを やりなさい。

むずかしいと 感じたとしても、気落ちしたり悲観したりすることはない。

そういう人は、きっと 愛することを 楽だと感じるに違いないから。


私は まだ、両方とも むずかしいと言う人には 出会ったことがない。
だから、どんな人にも望みはある。

瞑想することが むずかしい人には、愛することが 楽にできる。
そういうものだ。

もし 愛することのほうが 楽にできたら、瞑想は むずかしい。
愛することが むずかしかったら、瞑想は 楽にできる。
だから、自分で自分を 感じとってみることだ。


このことは、あなたの 肉体とは関係ない。
身体の構造や ホルモンとは関係ない。

これは、あなたの 内面的な在り方の 質に関わっていることだ。

一度 これが解ったら、いろいろなことが 非常に簡単になる。
もう まちがった道を辿ることもなくなるだろう。


自分の道ではない道を 転生ごとに試みたところで、何も遂げることはできない。
だが、
自分の道である道を 歩み始めると、最初の一歩が 最後の一歩のようになって、あなたは ただそのなかを自然に流れていくだけだ。
努力などなくなり、あなたは 努力することなく ただ流れていく。


禅は 男性的マインドに向いている。
近いうちに、私は スーフィズムの話をして バランスをとるつもりだ。

スーフィズムは 女性的マインドをもつ人たちに 向いている。

これら、禅と スーフィズムは 両極端にあると言える。


スーフィたちは 恋人たちだ。
偉大な 愛の人々だ。

実際、人間の 意識の歴史の上で、スーフィのように大胆な 愛の使徒は存在しない。

彼らは 神を、自分たちの恋人、愛する者にしてしまった。
彼ら以外に そんなことをした人たちはいない。

神は 愛する女性で、彼らは その愛人たちなのだ。
だから、もうすぐ スーフィたちを取り上げて バランスをとろうと思う。


禅は 虚空を 強く主張する。

仏教に「神」の概念がないのは このためだ。
それは 必要とされない。
が、
西洋の人々には、神の概念なくして 宗教が 存在することが理解できない。


仏教は 神の概念を 一切もたない。
その必要がない。

なぜなら仏教では、ただ空っぽであれ と言い、空虚であれば そこから全てが始まる と主張するからだ。

ひとたび あなたの存在が 空(くう)になったら、ものみな全て、それぞれ独自の道筋をとりだす。
だから、誰がそれに関わるというのだ?


神なしで 存在する宗教、これは 一つの奇跡だ。

宗教や宗教哲学について モノを書く西洋人が きまって困惑するのは、宗教を どう定義するかという点だ。
彼らにも、ヒンドゥー教イスラム教、キリスト教の定義は 簡単にできる。
だが仏教は 問題だ。


彼らは 神を、あらゆる宗教の 中心に在るものとして 定義する。
が、
そうなると 仏教が問題になってくる。

祈りを、宗教のエッセンスだ、一番大切な 要だ、と定義したら、また仏教が トラブルをひき起こす。

禅には、神もないし、祈りも マントラもない。
何もない。
大切なことは、空虚に、空っぽになれ ということだけだ。


神の概念があったら、空虚になる邪魔をする。

祈りも 邪魔だ。

詠唱や 読経も 空っぽにさせてくれない。


ただ単に 空虚であること、そこから 全てが起こる!

虚空は 仏教の 秘密を解く鍵だ。
あなたは、あ な た が い な い 状態で 在る、ということだ。


以下 略 ーーー



「草は ひとりでに生える」
The Grass Grows By Itself

講話 / OSHO
翻訳 / ナルタン (日家ふじ子)
発行 / OEJ Books 株式会社