saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第七章「第十の音の技法」02

「第十の音の技法」02

 

( もし子供が 敏感なまま成長すれば、病気の起こる前でも 気づくようになる )

 

現在、 とくにソ連で 研究されていることだが、もし身体について きわめて敏感であれば、病気の起こる 六ヶ月前に それを知ることができるそうだ。

微妙な変化は かなり前から始まっている。

そうした変化が、病気に対する身体の備えとなる。

その影響は 六ヶ月も前から感じられる。

 

  でも 病気なんか 気にしなくていい。

私たちは 死にさえ 気づかないのだ。

たとえ明日 死ぬとしても、あなたは それに気づかない。

死のように 次の瞬間にも起こりうるものにさえ、気づいていない。

自分の身体に対し、あなたは まったく死んでいる。  鈍感だ。

この社会全体、文明全体が、現在に至るまで、この鈍さを 創り上げてきた。

文明は身体に 敵対してきた。

身体を感じるのは許されない。

故障が あるときだけ、意識することが許される。

それ以外のときには 身体を意識してはいけない。

 

  このことは いろんな問題を生み出す ーー ことに タントラにおいて。

なぜなら タントラの基本は、身体についての 深い感受性と知識にあるからだ。

あなたが 活動するとき、身体もまた活動し、いろんなことをする。

でも あなたはそれに 気づかない。

現在、 身体の言語に対する研究が 盛んに行われている。

身体には 身体の言語がある。

そして精神科医や心理学者、ことに精神分析家が、身体の言語を専門としている。

彼らによると、現代人は当てにならない ーー 現代人の言うことは 当てにならない。

むしろその身体を 観察したほうがいい。

そのほうが正しい糸口を与えてくれる。

 

  誰かが精神科医の診察室に入る。

古い精神医学、フロイト派の精神医学では、その患者と ひたすら語り、その心に隠されていることを 表に出そうとする。

だが 現在の精神医学は、 患者の身体を観察する ーー それが 糸口を与えてくれるからだ。

たとえば、 エゴイストである人間、エゴが問題である人間の場合、その立っている姿は 謙虚な人間と 違っている。

その首の角度は 謙虚な人間と違っている。

その背骨は 柔軟でなく、生気に欠け、固まっている。

まるで 木製だ。  生きていない。

その身体に触ってみれば、木のような 感覚がある。

生きた身体の 温かみがない。

前線に向かう 兵士のようだ。

 

  前線に向かう兵士を 見てごらん。

その姿は 木のようであり、雰囲気も 木のようだ。

兵士には それが必要だ。

これから 殺すか 殺されるかだ。

あまり身体を意識するようではいけない。

だから いろんな訓練によって 木の身体を創り上げようとする。

兵士の行進は おもちゃのようだ ーー 死んだおもちゃが 行進しているかのようだ。

 

  謙虚な人間の身体は、 違っている。

座り方が 違い、立ち方が違う。

劣等感を持つ人間の 立ち方は 違うし、優越感を持つ人間の立ち方も違う。

いつも恐怖を抱いている人間の立ち方は、 まるで未知の力から身を守っているかのようだ。

いつも そうだ。

恐れを抱いていない人間は、 ちょうど母親と遊ぶ子供のようだ。

恐怖が ない。

どこに行っても恐れることなく、自分を包む宇宙とともに安らいでいる。

恐れを抱く人間は 鎧を着ている。

鎧を着ている というのは、象徴的な意味ではない。

生理的な意味で、鎧を着ている。

 

ウイルヘルム・ライヒは 身体構造について 詳しく研究した。

 

 

 02 おわり…03へ つづく

 

 

 

タントラ秘法の書   第四巻

「沈黙の音」

ヴィギャン・バイラヴ・タントラ

 


講話   OSHO

翻訳   スワミ・アドヴァイト・パルヴァ

            (田中ぱるば)

発行者   マ・ギャン・パトラ

発行   株式会社 市民出版社