saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第四章「質疑応答」01

第四章「第一の質問」01

『私たちの中では、抑圧というものが 心身の自動的反応となっています。 私たちはそれに気づくこともないし、それを変えたいとも思いません。 どうしたら、自分の中の偽りのイメージと 本物を区別できるでしょうか。』

 

 

  いろいろ理解すべきことがある。

ひとつ。

あなたの 顔は すべて偽りだ。

あなたには 真の顔がない。

だからこそ「どれが偽りで どれが本物か」という疑問が 起こるのだ。

真の顔を持っていれば、おのずと わかる ーー けっして そのような疑問は起こりえない。

あなたの場合、すべての顔が 非真実で偽りだから、比較ができない。

あなたには 真の顔がわからない。

だから 難しい。

あなたは 真の顔を 見たことがないし、また それは簡単には 見えない。

それを 見つけるには、大きな努力が必要だ。

 

  禅においては、「真の顔」は「本来の面目」と 呼ばれる。

本来の面目とは、 生まれる前に持っていた顔、死んだ後に持つであろう顔だ。

つまり、生きているときの顔は みな偽りだ ということだ ーー いわゆる「生きている」ときの顔。

では、どうやって真の顔を 見つけたらいいか。

そのためには 誕生の前に 戻ることだ。

それが真の顔を見つける 唯一の道だ。

 

 生まれた瞬間から、あなたは 偽りを開始している。

なぜ そんなに早くから 偽りを開始するのかといえば、偽ることで得をするからだ。

 

  子供が生まれる。

だが子供は もう政治家だ。

子供が 世界に関係するやいなや……親や家族に関係するやいなや、もう政治が現れる。

子供は 自分の顔に気を使う。

その微笑みは 賄賂だ。

いったい どうふるまったら もっと喜ばれるか、もっと愛されるか、もっと感心されるか ーー 子供は それを見い出そうとする。

そして 遅かれ早かれ 子供は、両親や家族の嫌いなものを察知し、 それを抑圧するようになる。

そこに 偽りが 現れる。

 

  だから あなたの持つ顔は すべて偽りだ。

今現在の顔から 真のものを見つけようとしても、それは 無駄だ。

みな偽りだ。 等しく 偽りだ。

顔は 役に立つ。

だからこそ使われているのだ。

有用ではあるが、真実ではない。

そして もっとも深い欺瞞、それは、自分の顔が 偽りだと 気づくと、つねに新しい顔を 作り出し、それを真の顔だ と 考えてしまうことだ。

 

  たとえば、普通の環境の中、ビジネス社会の中で、普通の生活を送っている人間が、「自分の生は偽りだ、本来のものではない」と認識し、それを 去ったとする。

彼は 求道者となり、世を捨てる。

すると往々にして 彼は、今度の顔は真実だ と 考えてしまう。

しかし それも やはり偽りの顔だ。

 

その顔を選んだのは、元の顔に反発したからだ。

しかし反発したところで、けっして真の顔には到達できない。

偽りの顔に 反発すれば、別の 偽りの顔が生まれるだけだ。

では どうしたらいいか。

 

 真の顔は 達成するものではない。

偽りの顔こそが 達成物だ。

真の顔は 達成するものではない。培うものではない。

発見する ものだ !   すでに そこにある !  

到達しようと努める必要はない。

どんな努力も 新たな顔へと つながるだけだ。

偽りの顔には 努力が必要だ ーー それは 培うものだ。

真の顔については なにもする必要が ない。

すでに そこにある。

偽りの顔への 執着を去りさえすれば、偽りの顔は 落ち、真が そこに残る。

落とすべきものが なにもなくなり、落とせないものだけが 残るとき、真なるものが認識される。

 

  瞑想とは 偽りの顔を落とす道だ。

 

  (01)おわり…(02)へ つづく

 

 

 

タントラ秘法の書   第四巻

「沈黙の音」

ヴィギャン・バイラヴ・タントラ

 


講話   OSHO

翻訳   スワミ・アドヴァイト・パルヴァ

            (田中ぱるば)

発行者   マ・ギャン・パトラ

発行   株式会社 市民出版社