第二章 ー 峰と谷の受け容れ (01)
ー 質問 ー
「本能を意識的にコントロールすべきでしょうか。」
第一の質問。
「昨夜のお話は、意識的なマインドがどのように無意識的本能を検閲し抑圧するかということでした。 それによると、無意識的本能は人間の進化における動物的遺産だとのことです。 だとしたら、はたして私たちは、意識的なマインドに属する知性や分別といった能力によって、無意識的本能をコントロールすべきでしょうか」。
人間は動物だ。
しかし たんなる動物ではない。
それ以上のものでもある。
だが その「それ以上」は、動物を否定するものではない。
大事なのは それを吸収することだ。
人間は 動物以上だが、その動物は 否定できない。
要は、それを創造的に吸収することだ。
それを 避けることはできない。
動物は まさに あなたの根だ。
動物は 避けて通れない。
要は、それを創造的に使うことだ。
だから おぼえておくべき第一点。
自己の動物的遺産に対して 否定的になってはいけない。
いったん否定的に考え始めたら、あなたは 自分自身に対して 破壊的になる。
なぜなら、あなたの 九十九パーセントは動物だからだ。
自分を分割してしまったら、負戦(まけいくさ)を戦うようなものだ。
勝ち目はない。
その戦いの結果は まったく裏目に出る。
九十九パーセントが 動物で、意識的なのは 心(マインド)の わずか一パーセントだ。
この 一パーセントが 九十九パーセントを相手に 勝てるわけがない。
必ず負ける。
だからこそ人々は 挫折するのだ。
誰もが みな自分の動物に負ける。
勝算は まったくない。
負けは必定だ。
その 一パーセントが 九十九パーセントに対して勝利するわけがない。
また、その 一パーセントでさえ、実際のところ九十九パーセントから分離できるわけではない。
それは ちょうど花のようなものだ。
花は 根に敵対できない。
木 全体に敵対できない。
あなたが 自己の動物的遺産に 敵対している間にも、あなたは それによって養われている ーー それによって生きている。
もしこの瞬間に あなたの動物が死んだら、あなたも たちまち死んでしまう。
あなたのマインドは 花として存在し、あなたの動物的遺産は 木の全体だ。
だから否定的になっては いけない。
それは 自殺行為だ。
もし自分自身を 分割したりすれば、けっして至福の境地には到達できない。
あなたは地獄を 創り出している。
地獄が存在するのは、ほかでもなく分割された人間性の中だ。
分裂した人間性にこそ、地獄は存在する。
地獄とは 地理的なものではなく、心理的なものだ。
天国も また同様だ。
内的分割や 葛藤のない 全一な人間性、それが 天国だ。
だから私の 言いたい第一点。
否定的に ならないこと。
自分自身を分割したり、自分自身に敵対したり、ふたつに なったりしない。
自分の中の動物は 別に悪いものではない。
そこには 大きな潜在性がある。
それは あなたの過去であり、また 未来でもある。
なぜなら 多くが その中に隠されているからだ。
それを 発見し、発展させ、成長させ、そして それを超えていく。
戦ってはいけない。
それこそが タントラの基本的な教えの ひとつだ。
ほかの伝統は分割的だ。
あなたを分割し、あなたの中に 戦いを生み出す。
タントラは 分割的ではない。
戦いを よしとしない。
タントラは絶対的に 肯定的だ。
「ノー」と言うことを よしとしない。
タントラは あくまで「イエス」と言う。
「イエス」を通じて 変容が起こる。
「ノー」を通じては 障害ばかりだ。
いかなる変容も 可能ではない。
いったい 誰と戦うつもりか。
自分自身を 相手にか。
どうして勝つことができるだろう。
あなたは 大部分、動物に由来する。
大きいほうが 勝つ。
だから戦う人々は 自ら敗北を招いている。
負けたいなら、戦えばいい。
勝ちたいなら、戦わないことだ。
勝利に必要なのは、知識であって、戦いではない。
戦い とは 微妙な暴力だ。
奇妙なことだが、こんなことが起こっている ーー 他人に対する 非暴力を 語る人々は、自分自身に対して ひどく暴力的だ。
様々な教えや 伝統が「誰に対しても暴力的であってはいけない」と 言うが、その同じ教えが 内側に向かっては ひどく暴力的だ。
その教えは こんなふうだ ーー「他人に対して暴力的であってはいけないが、自分自身に対しては 暴力的であれ」
苦行や、世俗放棄や、否定的態度や、生否定の哲学といったものはすべて、その基本に、自分自身に対する暴力的な姿勢が ある ーー「自分自身に暴力的であれ」というわけだ。
タントラは絶対的に 非暴力だ ーー 絶対的に !!
タントラによると、もし自分自身に対して 非暴力になれなかったら、他の誰にも 非暴力になれない。
なれるわけがない。
自分自身に対して 暴力的な人間は、誰に対しても暴力的だ。
その非暴力の中に暴力が 隠れている。
攻撃性は ひるがえって自分自身に対して 向けられる。
その攻撃的態度は 破壊的だ。
だからといって それは「自分の中の動物に とどまれ」という意味ではない。
自己の遺産を 受け容れたとたん、未来は その扉を開く、受け容れを通じて 扉が開く。
動物は 過去だ、未来である必要はない。
過去に対立する必要はないし、それは 不可能だ。
重要なのは それを創造的に用いることだ。
それを 創造的に用いるには、いったいどうしたら いいか。
まず最初に、その存在を 深く自覚することだ。
戦う人々は それを 自覚していない。
彼らは 動物を 背後に押しやる……無意識の中に押しやる。
恐いからだ。
実際のところ、無意識など 必要ない。
抑圧するからこそ 無意識が創り出されるのだ。
あなたは内側で いろんなことを感じながら、それを理解することなく 罪悪視してしまう。
だが、理解する人間は なにも罪悪視しない、その必要がない。
彼は 理解している。
だから、毒も 薬として 使える。
どんなものでも創造的に 使える。
知らないからこそ、無知の中で、毒は 毒となるのだ。
知恵があれば それは霊薬ともなる。
自分のセックスや、怒りや、貪欲(どんよく)や、動物を相手に 戦っている人間は、いったい 何をするのか。
抑圧だ。
戦いとは 抑圧だ。
そんな人間は、怒りや、セックスや、貪欲や、憎しみや、嫉妬を 押し込める。
すべてを どこかに、地下に、押し込める。
そして 偽りの構築物を地上に 創り上げる。
その構築物は 偽りだ。
なぜなら、そうしたエネルギーが 変容されていないからだ。
だから 本物になれない。
その構築物は 偽物だ。
地下に 真のエネルギーが抑圧されている。
そうした 真のエネルギーは つねに活動を続けている。
いつ爆発するか わからない。
火山の上に 座っているようなものだ。
その火山は 今にも噴火しようとしている。
もし 噴火したら、その構築物は 揺すぶられる。
宗教や道徳や 文化の名において 人が構築してきたものは、すべて地上の贋(にせ)の構築物だ。
たんに 偽りの見せかけにすぎない。
地下にこそ 本当の人間が 隠されている。
あなたの動物は それほど遠くにあるのではない。
あなたの 見せかけは、皮膚ほどの厚さしかない。
誰かに 侮辱されると、紳士は 消え失せ、動物が 現れる。
紳士は 皮膚ほどの厚さしかない。
火山は すぐそこにある。
いつ表に 現れるかわからない。
それが 出現したら、あなたの知性、あなたの道徳、あなたの宗教、あなたの いわゆる「動物を超えた存在」 、そういったものは 簡単に消え去る。
本物が 自己を主張すると、偽物は 消え失せる。
本物が 地下へ帰ると、やっと偽物が戻ってくる。
怒っているとき、いったい あなたのマインドは どこにある。
あなたの意識は どこにある。
あなたの道徳は どこにある。
「もう二度と怒るまい」と 何度も立てた 誓いは どこにある。
怒りが現れると、そんなものは みな簡単に 消え失せる。
その後、怒りが再び その洞窟へと、地下の洞窟へと戻ると、あなたは 後悔を始める、そして偽物たちは 再び集う。
そして ともに語り合い、非難をして、未来について考える。
だが、未来にも また同じことが起こる。
怒りが 現れると、影たちは消え失せる。
今現在、あなたの意識は ただの影だ。
本物ではない。
実体を伴っていない。
いくら「ブラフマチャリア」、禁欲を誓ったところで、あなたの性的な本能にはなんの変わりもない。
ただ地下へと 潜るだけだ。
それが 外へ現れ出ると、そのブラフマチャリア、禁欲の誓いの実態が わかる ーー それは 夢のようなものだった。
とても 現実には対抗できない。
だから ふたつの姿勢がある。
ひとつはセックスの 抑圧だ。
すると それを超えることは けっしてできない。
もうひとつは セックス・エネルギーを創造的に使うことだ。
セックスに対して「ノー」と 言わず、深い「イエス」を与えること……それを 地下へと押しやらず、それを用いて 地上に構築物を創り上げることだ。
すると あなたは真実の人間となる。
それは たしかに 難しい。
だからこそ 私たちは やさしい道を選ぶのだ。
偽りの構築物を作るほうがやさしい。
なぜなら なにもいらないからだ。
いるのは ただひとつ、自分を欺くこと だけだ。自分を 欺くことができたら、偽りの構築物は いとも簡単に創ることができる。
べつに なにも変わりはしないが、自分では すべてが変わった と 思う。
幻想を 創り上げるのはたやすい。
真実を創り上げるのは 難しい仕事だ、骨が折れる。
でも、それだけの 価値はある。
…(01)おわり、(02)へ つづく
タントラ秘法の書 第四巻
「沈黙の音」
ヴィギャン・バイラヴ・タントラ
講話 OSHO
翻訳 スワミ・アドヴァイト・パルヴァ
(田中ぱるば)
発行者 マ・ギャン・パトラ
発行 株式会社 市民出版社