saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

41「弦楽器を聴く」02

 

「第五の音の技法」(02)

 

(…いまだに楽器を必要とするようだったら、まだ彼は 真の音楽家ではない。

まだ 見習いだ。

もし音楽や瞑想に 親しむことができたら、遅かれ早かれ 内なる音楽のほうが大事になる )

 

そして、外の音楽は重要でなくなるばかりか、究極的には 障害となる。

意識が内側へと向かい、そして内なる音楽を 見い出したら、外の音楽は障害となる。

すると シタールは 捨てられる。

楽器は 投げ捨てられる。

なぜなら 内なる楽器が 見つかったからだ。

でも外の楽器がなかったら、それは 見つからない。

覚醒するには 外の楽器を通じてのほうがやさしい。

ひとたび覚醒を得たら、外側の楽器を 去り、内側へと向かう。

これは聴き手にとっても 同じことだ !  

 

  ところが、音楽を聴いているとき、あなたは いったいなにをしているのか。

あなたは瞑想していない。

その逆に、音楽を アルコールのように使っている ーー リラックスのために使い、自己忘却のために使っている。

それは 不幸なことだ、 悲劇だ。

覚醒のために 創り出された技法が、眠りのために使われている。

こうして いつも人は 自分に災いを招いている。

 

  覚醒のために なにかが与えられると、あなたは それを使って さらに眠りを深くしてしまう。

だからこそ 教えというものは、何千年ものあいだ 秘密にされてきたのだ。

眠っている人間に技法を与えても無駄だ。

与えられても 眠るために使ってしまう。

それよりほかに 使いようがない。

だから技法は 特定の弟子たちにしか 与えられなかった ーー 自分の眠りを 揺すぶろうという覚悟のある者、自分の眠気を粉砕しようという覚悟のある者だけに。

 

  ウスペンスキーは ゲオルギー・グルジェフに 一冊の本を捧げている ーー「私の眠りを邪魔した人間」としてだ。

彼のような人間は 邪魔者だ。

グルジェフブッダや、イエスのような人間は、邪魔者だ。

だからこそ私たちは 彼らに復讐する。

眠りを 邪魔するような者が 出てきたら、誰でも 十字架にかけてしまう。

そんな人間は 私たちにとって好ましくない。

私たちの見ていた夢は 美しかった……なのに、その男が やって来て眠りの邪魔をする。

そんな男は 殺してしまえ。

夢は じつに 美しかった。

 

  たとえ夢が 美しかったとしても、あるいは 美しくなかったとしても、ひとつだけ確実なことがある。

それは 夢だ。 不毛で無益だ !  

そして、もしその夢が 美しかったら、なおさらのこと危険だ。

それは魅力を 増して、麻薬のようになる。

 

 私たちは 音楽を麻薬として使い、踊りを 麻薬として使う。

もし音楽や踊りを 麻薬として使いたいなら、それは眠りのための 麻薬となるだけではなく、セックスのための麻薬ともなる。

この点を おぼえておくこと。

セックスと 眠りは 関連している。

眠りが 深いほど、人は 性的になる。

目覚めているほど、性的でなくなる。

セックスは基本的に 眠りに根ざしている。

目覚めると人は 愛情深くなる。

セックスのエネルギーが、すべて 愛へと変容される。

 

  スートラは言う

 

  『弦楽器を聴いているとき、その複合的な中心音を聴く。

     そうして遍在が。』

 

  かくしてあなたは、「知るべきもの」、あるいは「知るに値するもの」を 知る。

あなたは 遍在となる。

その音楽の複合的な中心核を見い出すことによって、あなたは 目覚める。

その目覚めによって、あなたは 遍(あまね)く存在する。

 

  今 現在、 あなたは 一地点に存在している ーー 私たちは その地点を 我(エゴ)と呼ぶ。

そこが あなたの いる地点だ。

もし 目覚めることができたら、その地点は消え去る。

すると、 あなたは どこにも存在しない。

遍く 存在する ーー まるで「一切 (いっさい)」に なったかのように。

あなたは もう 大海だ。

もう「無限」に なっている。

 

  有限性は マインドと ともにある。

  無限性は 瞑想と ともに現れる。

 

 

「第五の音の技法」(02)…おわり、

 

 

 

タントラ秘法の書   第四巻

「沈黙の音」

ヴィギャン・バイラヴ・タントラ

 


講話   OSHO

翻訳   スワミ・アドヴァイト・パルヴァ

            (田中ぱるば)

発行者   マ・ギャン・パトラ

発行   株式会社 市民出版社