saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「音に関する 第三の技法」(02)

「音に関する 第三の技法」02

 

  たとえば、ブッダは 否定的用語を 好んで使った。

彼なら きっと「無音」と言うだろう。

けっして「遍音」とは 言うまい。

「遍音」は肯定的用語だ。

ブッダなら「無音」と言うだろう。

だがタントラでは 肯定的用語が 使われる。

タントラは その思考全体が肯定的だ。

だからここでは、「遍音」とか「遍音状態に入れ」という表現が使われる。

ブッダの場合は、「絶対」を表現するとき、否定的用語の「シュンニャ」つまり「無」を使う。

ウパニシャッドは 同じ「絶対」を、「ブラフマ」つまり「絶対性」と表現する。

ブッダは 無を使い、ウパニシャッドは 絶対性を使う。

だが どちらも同じものを意味する。

 

  言葉が意味を失うときには、否定的用語と肯定的用語の どちらを使ってもいい。

言葉は 否定的か肯定的かの どちらかだから、一方を選ぶしかない。

それは 人それぞれだ。

たとえば、解脱した人について表現する場合、「彼は全体になった」と 表現できる。

これは 肯定的な言い方だ。

あるいは、「彼はもういない、無になった」とも言える。

これは 否定的な言い方だ。

 

  たとえば、小さな水滴が大海に達したとき、次のように言えるだろう。

「水滴は無となった。 水滴は個体性を失った、水滴は もはやない」。

これは 仏教的な言い方だ。

それは それなりにいい、正しい。

どんな言葉にも 限界がある。

だから、それは それなりにいい。

「水滴は もはやない」、それが「涅槃(ニルヴァーナ)」という言葉の意味だ。

水滴は 非在となった、もはや ない。

 

  あるいはウパニシャッド的な用語を 使ってもいい。

ウパニシャッドならきっと、「水滴は大海になった」と言うだろう。

それも また正しい。

なぜなら、境界が壊れるとき、水滴は大海となるからだ。

 

  それは 姿勢の違いだ。

ブッダは否定的用語を好んだ。

その理由はこうだ。

肯定的に語ると、それは たちまち有限になってしまう、有限に見えてくる。

たとえば「水滴は大海となった」という表現も、ブッダに言わせれば、「大海もまた有限だ」ということになる。

水滴は 水滴のままであり、多少 大きくなったというだけだ。

いかに 大きくなろうと、なんの変わりもない。

ブッダに言わせれば、水滴は 少しばかり大きくなったものの、依然そのままだ。

有限は 依然として 無限になっていない。

有限は有限のままだ。

だから なんの違いがある。

ブッダから見れば、大海と水滴との違いは、小さな滴と大きな滴との 違いでしかない。

まさに そのとおりだ。

数学的に言って そのとおりだ。

 

  ブッダによれば、もし水滴が大海となったとしたら、結局は なにも起こっていない。

もし あなたが 神になったとしたら、結局は なにも起こっていない。

たんに もっと偉大な人間になったというだけだ。

もしあなたが ブラフマになったとしたら、結局は なにも起こっていない。

あなたは 依然として有限だ。

だからブッダによれば、肝心なのは、無になること、シュンニャになることだ。

シュンニャ、それは 一切の境界や属性の空(くう)、およそ考えおよぶ 一切の空(くう)、ただひたすらなる空虚……。

 

  一方、ウパニシャッドの思想家たちは きっと言うだろう。

たとえあなたが空であっても、あなたは 存在する ! 

たとえ空虚になったとしても、あなたは依然、存在する。

空虚も また存在する。

無もまた ひとつの存在の仕方だ。

だから彼らによれば、なぜ その点にこだわって、いたずらに否定的用語を使うのか。

肯定的であったほうが いい。

 

  それは各々の 好みだ。

タントラは ほとんどいつも肯定的用語を使う。

タントラの哲学そのものが肯定的だ。

いわく、「ノーを許すな、 否定を許すな」。

タントラ行者は もっとも偉大な肯定家(イエスマン)だ。

あらゆるものに イエスを言う。

だから 肯定的用語を 使う。

 

  スートラいわく、

『ある音を ゆっくり唱える ーー「オーム」と。

    音が遍音状態になるとき、あなたもそうなる。

  ある音を唱える ーー「オーム」と』。

 

  音を唱える というのは じつに微妙な科学だ。

まず最初に、外へ向けて 大声で唱える。

他人にも聞こえるくらいに。

大声で始めるのはいいことだ。

大声で唱えれば、自分にも よく聞こえる。

あなたが なにかを言うとき、それは つねに他人に向けられている。

それが習慣となっている。

なにを語ろうとも、それは つねに他人に向けて語られる。

そして自分が語るのを聞くのも、他人に向けて語るときだ。

だから自然な習慣から 始めてみる。

 

  オームという音を唱える。

それから少しづつ その音との 同調を感じる。

オームの音を唱えるとき、その音によって 満たされるようにする。

ほかのものは すべて忘れて、オームに なる。

その 音になる。

それはまったく やさしい。

なぜなら音は、身体(からだ)を通じて、マインドを通じて、神経組織 全体を通じて 振動するからだ。

オームの響きを 感じてみる。

その音を 唱え、 その音を 感じる ーー あたかも身体全体が それによって満たされているかのように、あたかも 細胞すべてが それと一緒に振動しているかのように。

 

  唱える (intoning)ということは、内なる同調 (in - tuning)でもある。

だから、自分自身を その音と同調させ、その音になるのだ。

その音と自分との あいだに深い調和(ハーモニー)を感じるにしたがって、その音に対する深い愛着が培われる。

このオームという音は、たいへん美しく、そして音楽的だ。

この音を 唱えれば唱えるほど、きっとあなたは、 微妙な甘美さによって 満たされていくだろう。

 

  音によっては、苦(にが)いものも、過酷(ハード)ものも ある。

オームは じつに甘美(スイート)な音、もっとも純粋な 音だ。

オームを唱え、 オームによって 満たされてごらん。

 

  その音に対して 調和的になってきたら、大声で唱えるのを やめていい。

口を閉じ、内側で それを唱える。

しかし内側でも、 最初は 声高に やってみる。

内側で 声高に唱える ーー その音が身体じゅうに拡がり、身体の あらゆる部分、あらゆる細胞に触れるようにする。

すると それによって、活力が 増したように、若返ったように、新たな生命が 入ってくるように感じられる。

身体は ひとつの楽器だ。

身体は 調和(ハーモニー)を 必要とする。

調和(ハーモニー)が 崩れると、あなたの調子も崩れる。

 

 だからこそ音楽を聴くと 気持ち良くなるのだ。

なぜ気持ち良くなるのか。

音楽とは 互いに調和した音の集まりだ。

まわりに音楽があると、なぜ大きな幸福が感じられるのか。

また、騒々しい音がすると、なぜ ひどく悩まされるのか。

人は それ自身どこまでも音楽的だ。

人は ひとつの楽器だ。

その楽器が物事と 共鳴するわけだ。

 

  内側で オームを唱える。

すると、身体全体が その音と ともに踊りだすように 感じられるだろう。

まるで身体全体が洗浄されていくような、あらゆる毛穴が 洗浄されていくような感じだ。

その感覚が だんだん強烈になり、自分を深く貫きとおすようになれば、それにつれて だんだん音を小さくしていく。

小さければ小さいほど、音は深くまで達していく。ちょうど同種療法のようなものだ。

薬の一服が 少量であればあるほど、深く浸透する。

だから、もっと深くまで いこうとするなら、もっと 微(かす)かに、もっと微かに、もっと微かに していく。

 

  粗野で 荒々しい音は、人の ハートに 入っていけない。

耳には 入っても、ハートには 入らない。

通路は 非常に狭い。

ハートは とても繊細だ。

中に 入れるのは、ごく小さく、リズミカルで、微細な音だけだ。

音が ハートに 入らないかぎり、マントラは 不完全だ。

ハートというのは 自己の存在の もっとも深く もっとも中心的な核であり、そこに 音が入って初めて、マントラは完全なものとなる。

そこで、もっと小さく、もっと小さく、もっと小さくしていく。

 

  音を、もっと小さく、もっと微かにする ということには、ほかにも理由がある。

音が 微かであればあるほど、それを内側で 感じとるためには、大きな覚醒が必要となる。

音が粗大で あれば、覚醒の必要も少なくなる。

粗大な音は 簡単に人を打つから、人は すぐそれに気づく。

しかしそれは 暴力的だ。

 

  もし音が 音楽的で、調和的で、微かだったら、それを内側で聴くためには、大きな覚醒が いる。

覚醒がなければ、きっと あなたは 眠ってしまい、すべてを 逃してしまう。

それが マントラや、詠唱や、音を 使うときの 問題点だ。

音は 眠りを 生み出す ーー 微妙な精神安定剤だ。

どんな音でも 覚醒なしに繰り返したら、あなたは 眠りに落ちてしまう。

その繰り返しが 機械的になるからだ。

「オーム・オーム・オーム」が機械的になって、その繰り返しが 退屈を生む。

 

  退屈は 眠りにとって基本的に必要だ。

退屈しないかぎり、人は 眠りにつけない。

興奮していたら眠ることはできない。

だからこそ、現代の社会では人々は だんだん眠れなくなっているのだ。

その理由は、あまりに刺激物が たくさんあるからだ。

こんなことは 今までなかった。

 

  過去の時代、生活は、深い退屈、反復的な 退屈だった。

どこか山中の 人知れぬ村に行ってみれば、そこでの生活は 退屈そのものだ。

たぶん、あなたの目には 退屈には見えないかもしれない。

そこに 住んでいないからだ。

休暇で 訪ねたりすると、とても新鮮に感じる。

だが その新鮮さは、あなたの住む「ボンベイ」の せいであって、山々の せいではない。

その山々は まったく 退屈だ。

そこに 住んでいる人々は、退屈のあまり 眠っている。

いつも 同じものしか ない。

何の感激も ない 決まりきった日常……なんの変化もなく、一向に なにも起こらない。

なんの ニュースもない。

すべては 昔と同じまま。

円を描いて 繰り返すばかりだ。

季節が 繰り返し、自然が 繰り返し、昼と夜が 円を描いて 繰り返すように、古い村では すべてが 円を描いて繰り返す。

だからこそ村人たちは いとも簡単に眠ることができるのだ。

すべては ひたすら退屈だ。

 

  現代生活は ひどく刺激に満ちている。

何物も繰り返さない。

すべてが どんどん新しくなり、変化している。

生活は 予測不可能となり、あまりに 刺激に満ちているせいで、人は眠ることができない。

 

 

02 おわり… 03へ つづく

 

 

 

タントラ秘法の書   第四巻

「沈黙の音」

ヴィギャン・バイラヴ・タントラ

 


講話   OSHO

翻訳   スワミ・アドヴァイト・パルヴァ

            (田中ぱるば)

発行者   マ・ギャン・パトラ

発行   株式会社 市民出版社