saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「音に関する 第三の技法」(01)

「音に関する 第三の技法」01

『ある音をゆっくり唱える ーー「オーム」と。

音が遍音(あまねくひろがる)状態になるとき、あなたも そうなる。』

 

 

  ある音を ゆっくり唱える ーー「オーム」と。

たとえば「AUM (オーム)」、これは もっとも基本的な音のひとつだ。

AーUーM という三つの音が 組み込まれている。

A U Mとは 三つの 基本音だ。

あらゆる音は そこから作られ、それに由来している。

あらゆる音は その三音の組み合わせだ。

だから この三つは基本だ。

ちょうど物理学で、電子、中性子陽電子が基本だとされるくらいに 基本だ。

この点を よく理解するように。

 

 グルジェフは「三の法則」について語る。

彼によれば、絶対的な意味では〈存在〉は ひとつだ ーー 絶対的な意味、究極的な意味では、ただひとつの「法則」しかない。

だが、それは「絶対」においてだ。

私たちの 見るものは すべて相対的だ。

私たちの見るものは どれもけっして絶対的ではない。

絶対は つねに隠れている。

それは見えない。

私たちが なにかを 見たとたん、それは 分かれる。

三つに 分かれる ーー「見る者」、「見られる者」、 そして「関係性」だ。

私が あなたを 見ている ーー 私は ここにいて、あなたは そこにいる、そして 二人の間に「関係」が存在する。

その関係とは、「知識」の関係であり、「見ること、 視覚、 認識」の 関係だ。

その作用(プロセス)は 三つに分かれる。

「絶対」は 三つに分かれる。

絶対は、既知となった とたん、「三」になる。

未知の状態では「一」であり、既知では「三」に なる。

既知は 相対的だ。 未知は 絶対的だ。

 

  だから、絶対についての 私たちの論議でさえ、絶対ではない。

絶対と 言ったとたん、それは 既知となる。

私たちの 知るものすべて、絶対という言葉でさえ、相対的だ。

だからこそ 老子は、「真理は語れない」と 説いたのだ。

語った とたん、真理では なくなり、相対的なものに なってしまう。

だから どんな言葉を使おうと ーー 真理なり、絶対なり、上梵(パラブラフマ)なり、道(タオ)なり、どんな言葉でも、それを 使ったとたん、それは 相対的なものとなり、真実でないものとなる。

「一」が「三」に 分かれてしまう。

 

  だから グルジェフによれば、「三の法則」は 私たちの知る 宇宙の根本だ。

そして、深く追求してみれば わかるだろうが、すべては必ず 三に還元される。

それが「三の法則」だ。

キリスト教では それを「三位一体(トリニティ)」と 呼んできた ーー 父なる神、 子なるイエス、 そして聖霊だ。

インドでは それを「トリムルティ」と 呼んできた ーー ブラフマ、ヴィシュヌ、マヘッシ(シヴァ) という 三つの顔だ。

そして現在、物理学によると、どこまでも分析を 押し進めていけば、物質は 三つに還元されるという ーー 電子、中性子陽電子だ。

 

  詩人たちは こう言う。

人間の美的感覚について 深く追求してみれば、そこに見い出されるものは、サティヤム、シヴァム、スンダラム ーー 真、 善、 美 だ。

人間の感情は この三つに基づいている。

 

  神秘家は こう言う。

法悦(エクスタシー)、サマーディを分析してみれば、そこには サッチターナンダが ある ーー 存在、意識、至福だ。

 

  人間意識は、どの次元で活動しようとも、みな「三の法則」に いきつく。

「オーム」は「三の法則」の 象徴だ。

AーUーM、この三つは 基本音だ。

元素音と 呼んでもいい。

この三音が「オーム」の中に 組み込まれている。

だから「オーム」は 絶対のすぐそばに ある。

「オーム」の すぐ後ろには 絶対が ある、未知が ある。

音に 関するかぎり、「オーム」は 最終地点にある。

「オーム」を 超えることができたら、あなたは音を 超える。

もはや 音は ない。

「オーム」、それは 最後の音だ、この三音が最後だ。

それは 存在の境界だ。

この三つを 超えると、未知の中、「絶対」の中に入る。

 

  物理学者によると、今、私たちは 電子に到達した ーー どうやら極限に到達したようだ。

なぜなら電子は 物質とは言えないからだ。

電子は不可視であり、物質的な特性がない。

しかし非物質とも言えない。

なぜなら物質は すべてそれによって構成されているからだ。

もし 物質でも非物質でもないとしたら、いったい なんと呼ぶべきか。

今まで 電子を見た者は誰もいない。

推論されているだけだ。

その存在は数学的に 予測されたものだ。

その効果は 知られている。

だが、いまだに それを見た者は いない。

もはや それを超えて進むことはできない。

「三の法則」も また極限だ。

「三の法則」を 超えていけば、未知の中へと入る。

もはや なにもわからない。

電子に ついてさえも、ごくわずかしか知られていない。

 

  「オーム」は 音に関するかぎり極限だ。

「オーム」を 超えることはできない。

「オーム」が 盛んに使われた理由は そこにある。

インドだけではなく世界中で使われてきた。

キリスト教イスラム教の「アーメン」は、「オーム」の別形に ほかならない。

同じ基本音が 使われている。

英語で言う「オムニプレゼント(偏在)、 オムニポテント(全能)、 オムニセント(全知)」も それを含んでいる。

接頭辞の「オムニ (omni)」は「オーム」からの派生語だ。

だから オムニプレゼントの意味は、「オームの全体にわたって存在している」ということ、つまり存在界の全体にわたって存在している ということだ。

そして オムニポテントとは、絶対的に有力だ という意味だ。

オムニセントとは、「オーム」を見た ということだ。

「オーム」とは、「全体」であり「三の法則」だ ーー 宇宙のすべてが そのもとに収まる。

 

  キリスト教イスラム教では、「アーメン」が 祈りの後に用いられてきた。

だがヒンドゥ―教徒は、それにまつわる科学を完成させた。

それは音の科学であり、いかに音を 超越するかの科学だ。

もしマインドが 音であるなら、無マインドは きっと、「無音」か、または同じ意味だが「遍音」であるはずだ。

この点を 理解すること。

「絶対」を表現する場合、否定的表現と肯定的表現の ふたつのうち、どちらを使ってもいい。

「相対」の場合は、否定・肯定 両方の仕方で表現する必要がある。

それは 二元的だ。

だが「絶対」を表現する場合、肯定的用語あるいは否定的用語の どちらを使ってもいい。

人間の言葉には 否定的用語と肯定的用語の 二種類がある。

「絶対」とか「表現不能」を表現しようとする場合には、なんらかの用語を象徴的に使うしかない。

それは 人の性格による。

 

 

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