saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

OSHO「存在の詩」第十話 大いなる海ーー終わりなき旅の終わり

Pp580ー588     Pp593ー597

 

 マハムドラーの詩は続きます・・・

 

   『 至高の理解は

   かれこれの 一切を超越し

   至高の行為は

   執着なくして大いなる機知を抱く

   至高の成就とは

   望みなくして内在を知ることなり

 

   はじめヨーギは

   おのが心の滝のごとく転落するを感じ

   中ほどにてはガンガーのごと

   そはゆるやかにやさしく流れ

   ついに、そは大いなる海なり

   息子と母の光がひとつに溶け合うところーー 』

 

 

 誰もが 自由のもとに生まれ、にもかかわらず束縛の中で 死んでゆく。

生の はじめは完全に ゆったりと自然だ。

が、それから 社会が はいり込んで来る。

それから、ルールや規則や道徳や 掟という、いろいろな種類のトレーニングが はいり込んで来る。

そうして、その自由さや 自然さ、そして、その内発的な実存は失われてしまう。

人は 自分自身のまわりに 一種 よろいのようなものを かき集めだす。

人は だんだんと硬直しはじめる。

内なる やわらかさは もう見えない。

 

 自分の実存の 境界線のところに、人は要塞じみた現象を つくり上げる。

身を 守るために、傷つきにくいように、保身と安全のための反応が できるようにーーー。

そして、実存の自由は 失われる。

 

 人は 他人の目を 見はじめる。

彼らの是認、彼らの否定、彼らの認識が どんどんと 価値のあるものになってくる。

〈他人〉が 規準に なる。

そして、人は 他人を真似、従いはじめる。

他人と いっしょに生きるのは 避け難いことだからだ。

 

 そして、子供というのは とても柔軟だ。

子供は どのようにでも 形づくられ得る。

それを、社会が成型しはじめる。

両親、先生、学校ーーー。

そうして、少しずつ彼は 一個の〈人格〉に なってゆく。

実存じゃなくーーー。

彼は すべてのルールを 学ぶ。

保守主義者に なるか、それも束縛だ。

それとも反逆者になるか。

それも また別な種類の 束縛だ。

 

 もし 保守派、正統派、いわゆるスクエアに なるとしたら、それは ひとつの束縛だ。

彼は それに反発して ヒッピーになることもできる。

反対の 極端に走ることもできる。

しかし、それもまた 一種の束縛だ。

なぜなら 反発というのは、それが 反発する対象と 同じものに依存しているからだ。

 

 あなたは 世界の最果てまで 行くかもしれない。

が、心の奥深くでは その同じルールに逆らっているに すぎない。

ほかの人は それに 従っている。

あなたは それに 逆らっている。

しかし、焦点は 同じルールに当てられたままだ。

反動派であれ 革命派であれ、みな同じ舟に 乗っている。

彼らは 互いに対立し、背を向け合って 立っているかもしれない。

だが、乗っている舟は 同じだ。

 

 宗教的人間 というのは反動でも 革命家でもない。

宗教的人間というのは ただただ ゆったりと自然だ。

彼は 何かに賛成しているわけでも 反対しているわけでもない。

彼は ただ彼自身であるだけだ。

彼には 従うべきルールも 否定すべきルールも ない。

ただ単に、彼は ルールなど持っていないのだ。

 

 宗教的人間というのは、彼自身の 実存の内に自由なのだ。

彼は 習慣だの 条件づけだのという鋳型など 何も 持っていない。

彼は 文化に飼い慣らされた存在じゃない。

だからといって、文明化されてなくて 未開だ というのでもない。

彼は 文明や文化の 最高の可能性だ。

だが、文化づけされた存在じゃない。

彼は みずからの覚醒のもとに 成長したのであり、どんなルールも 必要とはしない。

ルールを 超越してしまったのだ。

 

 彼が 正直であるのは、それがルールだからじゃない。

ゆったりと自然で いたら、ただ正直であったというだけのこと。

たまたま 正直ということに なったのだ。

彼には 慈悲がある。

それは 彼が、「慈悲深くあれ」という教理に従っているからじゃない。

 

 それは 違う。

ゆったりと自然でいたら、彼は ただ慈悲が まわり中に あふれ出すのを感じるだけだ。

彼の側で 為されることなど 何もない。

それは 覚醒への 成長の副産物に すぎないのだ。

彼は 社会に 賛成でもなければ 反対でもない。

彼は ただ それを 超えているのだ。

彼は ふたたび子供になった。

完全に 未知の世界の子供。

新しい次元の子供。

彼は 生まれ変わったのだ。

 

 あらゆる子供は みな自然に、ゆったりと生まれる。

ところが、そこに 社会がはいってくる。

ある一定の理由で はいり込んでこなければならないのだ。

それは 何も悪いことじゃない。

というのも、もし子供が 彼のまま、あるいは 彼女のままで 放っておかれたら、その子は 決して成長しないだろう。

そして、その子は絶対に 宗教的な人間にはなれない。

彼は ただ けものみたいになるだけだ。

 

 社会は はいり込んでこなければならない。

社会は 通過されなければ ならない。

それは 必要なのだ。

ただひとつ 覚えておかなくてはならないのは、社会とは 通り過ぎるべき通路に すぎないということだ。

そこに 自分の家を建てるべきじゃない。

 

 ただひとつ 覚えておかれねばならないのは、社会というのは 一度従われ、そして次には 超えられなければならないものだ ということだ。

ルールは 学ばれ、そして 忘れられなくてはならない。

人生に ルールは つきものだ。

世の中には 他人というものが いるのだから。

あなたは ひとりっきりじゃない。

 

 子供が 母親の胎内にいるときには、完全に ひとりっきりだ。

なんのルールも いらない。

ルールというのは 他人が関係してきたとき はじめて出てくる。

ルールというのは 関係と ともにやってくる。

それというのも、ひとりっきりじゃないからには、あなたは 他人のことも考えなくては ならないし、他人のことも 勘定に入れなくてはならないからだ。

 

 母親の胎内では 子供は ひとりっきりだ。

なんのルールも、なんの道徳も、なんの規律も いらない。

なんの秩序も いらない。

しかし、生まれ落ちた その瞬間からーーー最初の 一息ですら、それは 社会的なものとなる。

もし その子が 泣かなければ、医者は即座に 泣かせようとするだろう。

数分の間に 泣かなければ死んでしまうからだ。

子供は 泣かなくては ならない。

その泣き声が 呼吸を可能にする気道を 開くからだ。

それが 喉をきれいにする。

彼は無理にでも 泣かされなくてはならない。

最初の一息ですら 社会的なものなのだ。

そして、そこには〈他人〉が 待ち構えていて、もう成型が 始まっている。

 

 それには 何も悪いところは ない ! 

それは 為されなければならないのだ。

ただし、それは その子が 決して彼の覚醒を失わないように、彼が その教化パターンと 一枚になってしまわないように、内側の深いところでは 自由のままでいるように、ルールには 従わなければならないけれど、ルール自体は 人生じゃない ということが わかるように、そして、それでもルールは 教えられなくてはならないのだ ということが わかるように、そんなかたちで為されなくてはならない。

 

 それは〈良き社会〉というものが行うであろうことだ。

それは こう教える。

「こういうルールは いいものだ。 世の中には他人というものが いるんだから。 しかし、それは 絶対じゃないし、あなたは それに閉じ込められている義務が あるわけでもない。 ある日、あなたは それを超越しなくてはならないのだ」と。

 

 社会というのは、それがその成員に、文明と、そして超越の 両方を教える限りにおいて 悪いものじゃない。

そのとき、その社会は 宗教的な社会だ と言える。

もしそれが 全然 超越を教えない としたら、その社会は ただ単に 俗な、政治的な社会でしかない。

そこには 宗教のかけらもない。

 

 あなたは ある一定の範囲までは 他人の言うことに 耳を傾けなくてはならない。

そして、それから 今度は自分自身に 耳を傾けなくてはならない。

最後には、初源の状態に還って来るべきなのだ。

死ぬまでに、あなたは もう一度 無垢な子供になるべきなのだ。

ゆったりと 自然な子供にーーー。

なぜなら、死に おいて ふたたび、あなたは ひとりぼっちの次元に はいって行くからだ。

ちょうど 胎内にいたときと 同じように。

 

 死に おいて、もう一度 あなたは ひとりぼっちの領域に はいってゆく。

なんの社会も そこには存在しない。

そして、一生涯のうちに あなたは、ただ 目を閉じて 社会を超えてしまうスペース、自分自身の中へ、自分自身の胎内へと はいってゆく いくつかの空間(スペース)を、砂漠の中の オアシスのような いくつかの瞬間を、見出さなくてはならない。

これが 瞑想の何たるか だ。

 

 社会は そこにある。

が、あなたは ただ目を閉じて社会を忘れ、ひとりになる。

どんなルールも そこには 存在しない。

なんの人格も いらない。

なんの道徳も、どんな言葉も。

あなたは 内側で ゆったりと自然になることが できる。

 

 その ゆったりとした 自然さに向かって 成長してゆきなさい。

たとえ もし外的な規律の必要が あっても、内側では 野生のままでいるのだ。

もし人が、内側では野生のままでいながら、しかも社会の中で必要とされることは習い覚えることができたら、やがて彼は、すんなりと超越してしまえる あるポイントに 行きつけるだろう。

 

 (…略…)

 

 これが あなたの現状だ。

そして、もしあなたが 他人に耳を貸すばかりで 自分の内なる 中心(センター)に 耳を傾けなかったら、この事態は 引き続くだろう。

瞑想というものは すべて中心(センター)が据わるためにある。

エキセントリックに ならないため、あなた自身の中心(センター)に おさまるためだ。

 

 あなたの 内なる声を 聴きなさい。

それを 感じなさい。

そして、そのフィーリングと いっしょに動くのだ。

だんだんと あなたは、他人の意見など 一笑に付すことが できるようになる、あるいは、単に無関心になれるようになる。

 

 それに いったん中心(センター)が 据わってしまえば・・・あなたはパワフルな実存と化す。

そうしたら、もう誰もあなたを 小突きまわすことなんかできない。

そうしたら、誰にどこへ押しやられることもない。

ただ もう誰も あえてそんなことをしようとしなくなる。

 

 中心(センター)に 据わった あなたの力の前には、意見を持って やって来た人も、あなたのそばに来ると けろりとその意見を 忘れてしまうほどだ。

あなたを どこかへ押しやろうと やって来る人も、けろりとそれを忘れてしまうほどだ。

むしろ あなたの近くに来ただけで、その人は あなたに圧倒されそうになる。

 

 たったひとりの人間が、社会全体、歴史全体が 力をふりしぼっても、一寸たりとも動じないほど パワフルな存在になれるのは、そういうことなのだ。

それが 仏陀の存在であり、それが イエスの存在なのだ。

あなた方に イエスを殺すことはできても、彼を 動かすことはできない。

そのからだを 破壊することはできても、一寸たりとも 彼を 動かすことはできない。

 

 彼が 強硬だとか頑固だというわけじゃない。

違う。

ただ彼は 彼自身の実存に 据   わ   っ   て いるのだ。

そして、彼は 彼にとって何がいいことか、何が至福に満ちているかを 知っている。

 そ   れ   は すでに起こっている。

もう彼を それ以上 新しい目標に そそのかすことなどできない。

 

 いかなる商売上手でも、彼を ほかのどんな目標に おびき寄せることも できない。

彼は 彼の〈わが家〉を 見つけている。

彼は しんぼう強く あなたに耳を傾けることはできる。

が、あなたには 彼を動かせない。

彼は  据   わ   っ   て いる。

 

この 中心に  据   わ   る  ということこそ、自然でゆったりと していることへの 第一歩だ。

そうでないと、もしあなたが 自然でゆったりとしていようものなら、誰に どこへ連れて行かれるか わかったものじゃない。

 

 子供たちが、自然でゆったりとしていることを許されないのは そのためだ。

彼らは まだそこまで成熟していないのだ。

もし 自然でゆったりとして、そこら中 かけまわっているだけだったら、彼らの人生は 無駄になってしまう。

だからこそ、私は 社会というものは大事な役割を果たしていると 言う。

それが彼らを 守ってくれる。

細胞膜のような〈人格〉が、彼らの砦に なってくれる。

彼らには それが必要だ。

彼らは とても傷つきやすい。

誰に 壊されてしまうか わからない。

世の中には 数えきれない人間がいる。

子供たちは 自分の道を見つけることもできまい。

彼らには〈人格〉という よろいかぶとがいる。

 

 もし その人格かぶとが あなたの生の すべてになってしまったら、そのときも あなたは お終いだ。

あなたは その砦になってしまうべきじゃない。

あなたは あるじのままでいるべきであり、その砦から いつでも出られるままでいるべきなのだ。

さもなければ、それは 防壁じゃない、牢獄になってしまう。

 

あなたは、自分の〈人格〉から 抜け出す力を 持っていなくちゃいけない。

あなたは、自分の〈原則〉を 脇にのける力を 持っていなくちゃいけない。

もし 状況が それを要求したときには、まったく新たな応え方をできる力を 持つべきなのだ。

もし この能力をなくしたら、もう あなたは固まってしまう。

そうしたら、ゆったりとなど していられない。

もし この能力が なくなったら、そのときあなたは 不自然になってしまう。

そうしたら、あなたは 柔軟じゃない。

 

柔軟性こそ 若さだ。

硬さは 老いだ。

柔軟で あればあるほど それだけ若い。

硬ければ硬いほど 老いている。

死は 絶対的な 硬直だ。

生は 絶対的な自由であり、柔軟性だ。

これを 頭に置き、そうしてティロパを 理解しようとするがいい。

彼の 最後の言葉だーーー。

 

『 至高の理解は

   かれこれの一切を超越し

 

   至高の行為は

   執着なくして大いなる機知を抱く

   至高の成就とは

   望みなくして内在を知ることなり 』

 

 ( 以下略 )