saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「究極の錬金術」by OSHO,(09) 翻訳 : スワミ.ボーディ.イシュワラ

「無意識との出会い」 (09 最終…)

(…その瞬間、圧倒的な静寂が、あなたを 乗っ取る。 あなたは 考えることもできない )

あなたのマインドは 動くことさえできない状態だ。

あなたは 存在に対して 大変な畏敬の念を抱き 

あらゆる物事が ストップする −−− 呼吸でさえも 止まる。

とても静かな瞬間、まったくの静寂の中では、意志が働くことは 不可能だ。

そこで、人は その静かな瞬間に、どのように物事を望むか、言葉を使わずに どのように願えばいいか、思いというもの なしに どう願えばいいか、と自分自身 訓練しておかねばならない。

それは 可能だ。

だが それには、そのための 修行が必要だ。

 

あなたが 花を見る。

その花を見て、花の美しさを 感じること。 だが「美しい」という言葉を 使ってはならない。

マインドの中でさえ「美しい」という言葉を 使ってはならない。

その花を見る、そして花を あなたの中に 入り込ませる。

あなたの ハートにまで 届かせなさい。

が、言葉を 使っては ならない。

その美しさを 感じなさい。

が、「花は美しい」と 口に出してはいけない。

マインドの中で そう言ってもいけない。

言葉にしてはいけない。 すると 徐々に、言葉を使わずに 花の美しさを 感じられるようになるだろう。

実際、それは 難しいことではない。 自然なことだ。

 

あなたは まず 感じる。

そのあとに 言葉が やって来る。

だが、我々は 余りにも言葉中毒に かかっていて 隙間がない。

感覚が そこにある。

そして突然、あなたはそれを 感じてさえいないのに 言葉が やって来る。

そこに、隙間を作り出すことだ。

ただ 花の美しさを感じる。 が、言葉を使ってはならない。

もし 感覚から 言葉を離すことができば、存在から 感覚を離すことさえ できるようになる。

そうしたら、花を そこにあらしめ、あなたと花は 二つの実存として そこにある。

だが、感覚を 介入させてはならない。

今度は「花が美しい」と 感じることさえいけない。

感じないように −−− そこに 在らしめなさい。

そして あなたは、感覚の 波一つない、深い抱擁の中で そこにいる。

そうしたら、感覚なしに 美を 感じるだろう。

実際、あなたは 花の美になる。

それはもう 感覚ではない。 あなたが その花に なる。

その時、あなたは実存的に 何かを感じた。

あなたに それができれば、今度は 願えるようになる。

あらゆるもの −−− 思考、言葉、感覚が なくなったら、実存的に 物事を願えるようになる。

そして その願いを助けるために、多くのものが 使われた。

一つは、探求者は、「事が やって来たとき、 そのハプニングが 起こり始めたとき、 自分は 何をすればいいのだろうか ?」

と 常に 考え続けなければならない、ということだ。

 

「アワム・ブラフマースミ −−− 我はブラフマンなり」というような ウパニシャッドの経文は、言葉上で 言っているものではない。

これらの経文は、声明という意味合いを持っていない。

哲学的な理論としての意味合いを持っていない。

それらは、あなたの実存の 細胞の中に深遠な意志を刻み込むための ものだ。

そしてその瞬間が やって来たら、「我はブラフマンなり」と自分に言うマインドは 必要ない。

あなたの身体が それを感じ始める。

あなたの細胞が それを感じ始める。

あなたの身体の あらゆる組織が それを感じ始める −−− 

「アワム・ブラフマースミ」ということを。

そして その感覚は、あなたが作り出す必要はない。

それは あなたの存在の中に 深く浸透していく。

すると突如として、あなたが無意識と遭遇した時 

意志を発動する瞬間がが やって来る。

すると あなたは創造者になる。

あなたの全存在が「アワム・ブラフマースミ」と 波動し始める。

そして、あなたの存在が「アワム・ブラフマースミ」と波動し始める時、あなたは 一人のブラフマンになる −−− そうなるのだ ! 

そうすると あなたは、何であれ 自分が感じるそのものに なる。

それは、形而上のこととして 知られるべきことではない −−− そうではない ! それは 一つの体験だ。

だから、あなたはそれを体験を通してのみ、知ることができる。

それが正しいか 間違っているか、判断しては ならない。

「イエス」と「ノー」という見方で 考えてはならない。

ただ、「ポー、いいだろう」と 言うがいい。

何らかの努力をしなさい。ただ「いいよ !  それはそうかもしれない」と 言いなさい。

結論を下してはならない。

我々は すぐに結論を下したがる。

誰かが「いいや、 そんなこと無理だよ」と言う。

それは 実際には「私は やってみるつもりはない」と 言っているのだ。

彼は「それは 無理だ」と言っているのではない。 彼は 自分自身をだましている。

彼は「私は それを やるつもりはない」と言っているのだ。

「私はそれをやるつもりはない」と 言っているなら  どうして そのことが 可能になる ? 

彼は 自分を 正当化している。

 

他の誰かは「うん、 それはできるよ、 それは 何回も起こった。 それは 私のグルに、 そして私の師に起こった。 それは あちらでもこちらでも起こった 」と言う。

彼も また、自分でやってみようと しない。

というのも、彼は それを大したことじゃない、と かた付けてしまっているからだ。

「それは多くの人達に起こった。 だから 無意識と出会うことなんか、 人間がやってみなければならないようなことじゃない !」と 思っている。

そして彼は「それは自分にも起こり得る」と感じている。

そうではない。

エスとも ノーとも 言わないこと。

ただ、目的を達するための 一つの実験として  仮定として やってみなさい。

宗教は 人から与えられるものではない。

人は 自分の中に、宗教を作り出さなければならない。

宗教とは 与えられるものでもなければ  与えられ得るものでもない。

それは、自分自身の内に 発見されねばならない。

だから、自分で体験するまでは 結論を出してはいけない。

自分で知るまでは、物事を判定してはならない。決して 最初から 決めつけてはならない。

さもないと、絶えず物事を聞き続け、考え続けることはできても、何ひとつ「する」ことは できないだろう。

考える ということは、「すること」ではない。

考えるとは、「する」ことから 逃げている ということだ。

 

終了 −−−