saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「究極の錬金術」by OSHO,(08) 翻訳 : スワミ.ボーディ.イシュワラ

「無意識との出会い」 (08)

(…漸悟の方法なら 一人でも進んで行ける。 というのも 危険がないからだ )

 

あなたは 少しずつ、少しずつ 進んで行かなければならない。

そして、少しずつ物事が起こり始める限り  あなたは それを 自分でコントロールできる。

だが、もし途中に ステップがなくて ジャンプしなければならない時、あなたが どこで落っこちてしまうのか、何が起こり得るかを 知っている人が必要になる。

師とは、本当は 方法を教えるために必要なのではなく、その方法を実践する中で、あなたに 何かが起こり始めた時、また、あなたが未知なる領域へと 進み始めた後、本当に必要となる。

 

そして 頓悟の方法がある。

だが、それらについては 言うまい。

私は あなた方に 一つ漸悟の方法を与えた。 そして沢山の方法がある。

だが、頓悟の方法については 話さないつもりだ。

というのも、それらについて 話すことは危険だからだ。

もし誰かが その話に興味を持てば、彼が その方法をする可能性がある。

だから 話すことはできない。

スクールの教えでは、それについて何も書かれるべきではないと、強く言われてきた理由がそれだ。

なぜなら、一度あなたが 何かを書いてしまうと それは公になり、誰でも その方法を実践できるようになるからだ。

誰でも、ただ自分自身の好奇心ゆえに、その方法の犠牲者になり得る。

そうしたら、その時 助けてくれる人は 誰もいない。

たとえ その中に、頓悟について何かが書かれているとしても、常に 根本的な部分は書かれていない。

だから教典を通して修行し始めるものは 

常に 危険にさらされている。

そして 彼らが おかしくなってしまうことも、しばしば起こる。

なぜなら、繋がりの 欠けている部分が 常に存在するからだ。

 

そして、その繋がりの 欠けている部分は 常に 師から弟子へと、口伝されるものだ。

それは 個人的な、秘密のプロセスだ。

その欠けている 繋がりの部分が カギになるからだ。

だから どんな教典も、真実完全では 絶対あり得ない。

そして どんな教典も、真実完全だったことはない。

というのも、知る者は、その知っていることを 完全に書くことは 決してあり得ないからだ。

誰もその方法を使えないように、何かが カギとして 隠されたままでなければならない。

それを読むことはできる。

それに対して コメントすることはできる。

それに対して 論文を書くことはできる。

が、それを 実践することはできない。

ある 一つのカギが、その教典それ自体の中に 与えられていないからだ。

また、与えられていたとしても、それは あなたが解読できないようなやり方で与えられている。

そして それを解読する方法は、その中にはない。

だから、私は 頓悟の方法の実践について話さない。

 

が、段階的に 何かをすることはできる。

そして、この鏡を見る瞑想 (05) は、とても強力なメソッドだ −−− 自分自身の意識の奥底を知り、また 自分自身のあるがままの 本当の姿を知るには、非常に強力な方法だ。

そして いったん知ってしまえば、あなたは主人になる。

そうしたら、あなたが 何かを言うだけで 

その 言ったことが 形に現れ始める。

自己の 無意識と出会い、その時あなたが「私は この瞬間に 死ななければならない」と 言えば、まさに その瞬間に死ぬだろう。

その時あなたが「私は まさに この瞬間に、 覚者にならなければならない」と 言えば、あなたは まさにその瞬間に 覚者になるだろう。

時間は まったく不要だ −−− ただ そう望むだけで、物事が起こり始める。

それだけ聞くと、とても簡単なように 

思い始めるかもしれない。

が、それは 難しい問題だ。

まず 第一に、その境地に 到達することが難しい。

たとえ 到達が そんなに難しくないとしても 

その瞬間に 何かを望む ということが、大変 難しい。

 

その瞬間、圧倒的な静寂が、あなたを 乗っ取る。

あなたは 考えることもできない。

 

 

(08)終わり(09)へ 続く