saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「究極の錬金術 2」by OSHO,


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最初の質問 (05)

 

 そこで科学は、新しいコンセプトを開発した。

今、彼らは こう語る。

「電子は 粒子であり、波動だ、 その両方だ。

だから電子を スクリーンに放出すると、同時に 二つの穴を 通り抜けた −−− 波動は二つの穴を 同時に通れ抜けられる。

粒子にはできない。

波動は二つの穴を 同時に通り抜けられるが、粒子にはできない。

あなたが 電子を見れば、それは粒子だ。が、それは 波動のような動きをする」

とはいえ、昔の数学、昔の幾何学、昔のユークリッドの 数学は、それを認める用意がない。

 

波動は粒子ではないし、粒子は 波動ではない。

点は線ではないし、線は 点でないからだ。

彼らは ユークリッド幾何学すべてを、捨て去らねばならなかった。

 

そして 今や、彼らは こう言っている。

「我々は 事実に数学を 押しつけることはできない。

我々は 我々の数学を 変えねばならない。

他に道はない」。

もし事実が 非数学に振舞うなら、事実に『数学的に振舞いなさい。 論理的に動きなさい』とは 言えない。

 

物理学は、我々の発見した法則すべてが あやふやになる不可解な世界を 発見した。

あなたが 電子を観察すると、それは粒子のように、点のように見える。

が、電子の動きを見れば、それは波動のように、線のような動きをする。

 

それと同じことが、究極の真理に起こった。

 

もしあなたが 愛する者の 目を通して 究極の真理を見れば、波動のような振舞いをする。

あなたが 知る者の 目を通して見れば、

それは 粒子のように見える。

 

知る者の目で それを見ると、一つのように見える。

愛する者の目を通して見ると、二つのように見える。

それは 見る者次第だ。

それは、波動と粒子の 両方であり、どちらでもない。

 

ゆえに、もし人が 一つの立場、一つの考え方を 余りに 強調し続けると、その考え方が 他の考え方から矛盾するように見える −−− というのも、ある者は「電子は粒子だ。 私は それを自分の目で見た」と 言う。

その人の 言うことは正しい。

何も 間違っていない。

が、そう考えるなら、他の見方を 排除することになる。

また、自分で 電子の動きを見た人の 別の見方が 間違っている、 ということになる。

 

その人が

「私のほうが正しいのだから、あなたが間違っている。

私は 電子が粒子であることを 見た。

電子は波動であるわけがない」と言うとしたら、もう一方の見方をする人を まったく拒否している。

そのとき、 矛盾が ある。

 

だが、同じことが、電子は波動のような動きをする と 観察したもう一方の人、電子が 二つの孔を同時に 通り抜けると 自分の目で見た人によって 起こり得る。

彼らは言う、

「電子は粒子ではまったくない。 粒子が波動のような動きをすることはあり得ない」と。

その状況において、彼らは 自分の理論を主張し続ける。

 

そして彼らは 派を造る。

排他的な 派を造る。

 

この経文は 稀だ。

それは 両方の コンビネーションだ。

 

 

 

(05)終わり(06)へ 続く