saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第17章「意識の完全なる開花に向かって」(08)

(08)

( あなたは、本当の自分ではないことばかり 考え続け 

本当の自分を だまし続けている。

 

ありのままの自分、その「事実性」の認識が 意識的になることの始まりだ。

そして、それが唯一の 正しい始まりだ )

 

自分の行為は 無意識であり、意識的ではないのだ と まず認識する。

あなたの愛、憎しみ、怒り、あなたの友、敵、それらは みな、あなたの無意識の 一部だ。

あなたは 意識的な 存在ではない。

あなたは ほんのわずかしか、意識的な部分を持っていない。

だから「自分は意識的な存在ではない」とわかる。

 

もし狂人が「あなたは狂っている」と 誰かに説得されるとしたら、彼のマインドの 一部分は、まだ狂っていない ということだ。

もし狂人が「自分は狂っている」と はっきり認知しているなら、彼の マインドの一部分は まだ狂っていない。

 

だが狂人には「あなたは狂っている」と納得させることはできない。

もし納得させられたら、あなたの判断が間違っている ということだ。

彼は 狂ってなどいない。

少なくとも、まだ マインドの 一部分は 正気だ。

 

もしあなたが「自分は無意識な存在だ」と はっきりとした認識に至れば、それは いい知らせだ。

それは マインドの 一部分が −−− ほんのわずかな部分、ほんの少しの断片が、意識的になっている ということだ。

 

そして その断片が、今度は 意識を増やすために使われる。

その断片は、二通りの やり方で使うことができる。

自分が すでに意識的になっている と 自分を正当化するか −−− それが我々の していることだ。

それとも、意識を深く 掘り下げていき、我々は無意識である と はっきりと認識するかの どちらかだ。

 

意識的になっている わずかな部分 −−− 人間という氷山の 十分の一の部分は、二通りのやり方で 使うことができる。

一つは 自分は すでに意識的な人間だと正当化し 思い、想像し、夢を 見続けること。

それが我々の やり続けていることだ。

あるいは そのわずかな意識部分を、内側を掘り下げ、自分たちは全然 意識的ではない と はっきり認識もできる。

 

それが 真実の探求者の あるべき姿だ。

 

そして 一度、自分が意識的ではない と 感じれば 意識の夜明けが あなたに訪れる。

 

あなたは 道の途上にいる。

今、多くの 可能性が ある ! 

 

一度、自分が縛られていて「これは自分の家ではなく 監獄だ」とはっきり認識すれば、それを打ち破り、そこから逃げ出すために 何とかするだろう。

 

 

(08)終わり(09)ヘ 続く