saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第13章「在ることを通して越えていく」(13)


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(13)

( 論理のカテゴリーは 役に立たない ということだ。

論理は 思考の中に 存在し 

神秘は 無思考の中に 存在するからだ )

 

そこに 思考が なければ、あなたは 神秘に 遭遇する。

そこに 思考がない時、すべての橋が 壊され。

全てのギャップが 壊され、あなたは 神秘に遭遇する。

 

別の次元からすれば “これ” は 思考の世界を 意味し 

 “それ” は 無思考の世界を意味する。

もし あなたが 無思考の状態になれば 

あなたは “それ” の 中に ある。

あなたが 思考の中にあるなら、“これ” の 中に ある。

あなたが 思考の中にあるなら、存在の中には いない。

 

思考の 中に いると あなたは自分自身から 遠く離れて 旅をしている。

 

思考の中に 深く入って行けば行くほど 

自分自身から 遠く離れてしまう。

だから、思想家は 決して 知者ではない −−− 決して ! 

思想家とは、ただ夢見ているだけだ。

 

・・・(略)・・・

 

もし あなたが 考えているとすれば、知ることは 不可能だ。

あなたは、知る か  考える かの どちらかしか できないからだ。

 

マインドは 両方 同時には できない。

あなたは 考えるか、知るかの どちらかしかできない。

それはちょうど、走るか 立っているか の どちらかしかできないのと 同じだ。

両方は できない。

もし誰かが「私は 走りながら 立っている」と 言ったとすれば、彼は、 我々が「私は 考えながら 知ります」というのと同じくらい、不条理だ。

あなたは 知ることはできない。

というのも、知るということは 立っていることで、考えるということは 一つの思考から 別の思考へと 走っていることだからだ。

それは プロセスだ。

あなたは 走り、ジャンプし、走り、ジャンプし続ける。

もしあなたが 内側で静かにしていれば、走り回ることなく 統一していれば、ただ 座っていれば −−− 

 

日本では、それを「座禅」と呼んでいる。

それは、ただ 座ること、という意味だ。

日本語で瞑想を表す言葉を「座禅」と言う。

 

 

 

(13)終わり(14)へ 続く