saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第六章 内なる導き 🔟

(…政治的指導者を見てごらん。 彼らは不幸の中にいる。)


私は いまだかって一度も、幸福である政治的指導者を見たことがない。
ただ 不幸であるばかりだ。
にもかかわらず、もっと高い地位を うかがっている。
もっと高く 梯子(はしご)を昇ろうとしている。

自分より上にいる人間も また不幸だーーーそのことは 自分でも よく承知している。
ところが 私たちは、成功を前にすれば 不幸もいとわない。

いったい、私たちにとって 成功とは何か。

成功とは エゴ的な成就だ。
至福ではない。

他人から、
「あなたは成功者だ」と 言ってもらいたいだけだ。

たとえ すべてを失っていようとも------魂や、至福をもたらす 無垢や、自分を〈神〉に 近づけてくれる平安や、静寂などを 失っていようとも 、まったく狂人になっていようとも、世界はあなたのことを きっと「成功者だ」と 言うだろう。


世界にとっては、エゴの満足こそが 成功だ。
私にとっては 違う。

私にとって 成功とは、至福に満ちることだ。

世に 知られているか どうかは どうでもいい。

世に 知られているか、あるいは、まったく知られず埋れたままか、そんなことは どうでもいい。
もし 至福に満ちていれば、それこそ 成功だ。


この区別を 覚えておくように。
世の中には、世間で成功するために、直感的になろうとか、内なる導き手を見つけようとしている人々が 大勢いる。

そうした人々にとって、内なる導き手は きっと期待外れになるだろう。

第一に、そうした人々は 内なる導き手を 見つけることができない。

第二に、たとえ 見つけたとしても、きっと 彼らは不幸だろう。

彼らの 求めていること、それは 世間からの認知であり、エゴの充足だ。

至福ではない。


はっきり 心に刻んでおくことだ。

成功を 目指してはいけない。
成功は、この世で 最大の失敗だ。
だから 成功しようと思ってはいけない。
さもないと 失敗者となる。

そうではなく、至福に満ちることを 考えるのだ

どの瞬間にも、もっともっと 至福に満ちることを考える。
すると、世界全体が「お前は 失敗者だ」と 言っても、あなたは失敗者ではない。

あなたは 到達している。


ブッダは 失敗者だった。

その友人や、家族や、妻や、父親や、教師たちや、社会の目から見れば 、彼は 失敗者だった。
彼は 乞食になった。

これが果たして 成功だろうか。

偉大な 帝王にもなれたのにーーー彼の資質は それにふさわしかった、彼の性格は それにふさわしかった、彼の マインドは それにふさわしかった。

彼は 偉大な 帝王にもなれた。

ところが 乞食になった。

どう見ても 彼は 失敗者だ。

でも 私に 言わせれば、彼は 失敗者ではなかった。

もし 帝王になっていたら、きっと 失敗者となっただろうーーー真の生を 逃していただろう。

彼が 菩提樹の下で 得たものは、真のものであり、そして、彼の失ったものは、偽りのものだった。


彼の成功は、内なる生の 成功だ。

偽りの成功については、私は 知らない。

もし偽りの成功を得たかったら、狡猾、利口、競争、嫉妬、暴力------こうした道を歩むことだ。

内なる導き手は、それ に ふさわしくない。
もし この世界において 何かを得ようと思うなら、内なる導き手には 耳を傾けないほうがいい。


しかし究極的には、世界全体を手に入れた と考える人間は、自分自身を 失っている。
エスは言う、
「全世界を手に入れながら自分の魂を失ったとしたら、そんな人間は何を得たといえようか」。

あなたは どちらを成功者と呼ぶかーーー大王のアレクサンドロスか、磔のイエスか。


もしーーーこの「もし」を よく理解することだーーーもし、あなたの関心が こ の 世 界 にあったら、内なる導き手は 無用だ。
もし、あなたの関心が 存 在 の 内 な る 次 元 にあったら、内なる導き手こそが、唯一の助けとなる。



第六章 内なる導き (第二と第三の質問)


VIGYAN-BHAIRAV-TANTRA
タントラ秘法の書 第十巻
「空の哲学」

講話 / OSHO
翻訳 / スワミ-アドヴァイト-パルヴァ(田中ぱるば)
発行 / 市民出版社