saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第7話 ーーー 〈無〉に 帰依する (24)

…( キェルケゴールは それについて思索したに違いない )

彼は とても恐怖指向の人物だったに 違いない
彼について 物語があって
彼は 金持ちの息子だったと言う
その父親が 死んだ

彼が キェルケゴールに充分なお金を残してくれたので
キェルケゴールは 一度も働いたことがなかった
彼は 絶え間なく沈思黙考していた
彼には楽に そうするだけの余裕があった
何ひとつ やることは なかった
彼は銀行に 充分なお金を持っている
毎月 一日(ついたち)になると 彼は銀行に行く
それが 彼の仕事のすべてだった
いくらかの お金をおろすこと ーーー

そうやって 彼は生活し
そして 瞑想する
瞑想というのは
彼の感覚では 沈思黙考
思いにふけること,考えることを意味する
英語の “瞑想 (meditation)” という言葉は そういう意味だ
それは “ディヤーナ (dhyana)” にふさわしい訳語じゃない

人々が 私のところへ やって来て
私が彼らに 瞑想しろと言うと
彼らは「何にですか ?」と言う
英語の言葉は 何かある対象に瞑想することを意味する

インドの “ディヤーナ” という言葉は
それが 効 い て い る という意味で
何かに瞑想する という意味じゃない
それは ひとつの 状 態 であって 行 動 じゃない


そこで彼は 沈思黙考し
考え,思いにふけり,哲学化する
その彼が きれいな女の人と 恋に落ちた
にもかかわらず 彼は
結婚すべきか 結婚すべきでないか 決心できなかったという

愛という まさにその現象が
彼の中で ひとつのおののきに なってしまった
3年のあいだ 彼は 思いめぐらし
そして結局 結婚しないことに決めた
彼は 愛していたのだ
それでもなお 彼は結婚しない決心をしたのだ
なぜか ?

愛という まさにその考えだけで
彼の中に おののきが 生まれたからだ
愛は 一種の死だ
もしあなたが 本当に ひとりの人を愛したならば
あなたは 彼または彼女の中に 死ぬ
あなたは 彼または 彼女の中に消え失せる


あなた方が 愛を交わす (make love) とき・・・

私は この “make” という言葉を 使わないわけにはいかない
それは 当たってはいない
だが 本当に当たっている言葉など 何もない

だから,覚えておきなさい
私は 言葉というものを そのすべての限界のもとに 使わなくてはならない

愛は 作 れ る (make)ものじゃない
“ making love ” というのは 間違った表現だ
それは 起 こ る
だが,とにかく それ が起こるとき
あなたが誰かとの 愛に満ちた空間(スペース) にいるとき
恐怖が やって来る
それは あなたが消えようとしているからだ

たくさんの人たちが
大勢の人たちが,何百万という人たちが
けっして オーガズムに達しないのは そのためなのだ
オーガズムというのは ひとつの死だからだ


そして キェルケゴール
自分自身が この女性の中に 消えてなくなってしまうんじゃないかと 恐ろしくなるくらいに大変な恋をしていた
その恐怖は あんまりだった

彼は その考えを 捨ててしまった
彼は それを拒絶した
自分は 結婚などすまい ーーー

彼は 一生 苦しんだ
なぜ そんなことをしてしまったのか ?
恐怖のせいだ
彼は 恐怖指向の 人だった


彼は完璧に生きた
何もせず
ただ 哲学して暮らした
そして,彼が死んだ日
ひとつ とても奇妙な逸話が残っている

彼が死んだ日
彼は 銀行から帰って来る途中で 死んだ
それは ある月の ついたちだった
彼は銀行から帰って来るところだった
自分の お金を おろして ーーー

だが,それは 最後のお金だった
彼は 路上で死んだ
彼は 恐怖から死んだのではないかと 考えられている
というのも,もう銀行には 一銭も残っていなかったからだ
彼は 完璧に健康だった
彼は 病気じゃなかった
そんなに 突然 死ぬ理由など 何もなかった
ところが 銀行から帰って来る 途中・・・

そして銀行のマネージャーが こう言った
「これが 最後です
あなたのお金は お終いに なりました」

彼は 家にたどり着くことが できなかった
彼は 路上で死んだ
彼は 仏陀が語っている〈無〉を経験し得て いなかったのだ
彼は それについて考えたにすぎなかったに違いない
それがゆえの恐怖なのだ


そして,ジャン・ポール・サルトルもまた
“瞑想” と呼ばれる その空間(スペース)に はいったことがない
彼は 瞑想家じゃない

彼は またしても ひとりの思想家だ
そして まったくの西洋人ときている
彼はまだ 東洋的な 内への道を知らない
それがために 自由が 刑のように見えるのだ
自由が 不安のように見えるのだ


真実は ちょうどその反対だ
もし あなたが自由の中へ
〈無〉の中へ はいって行ったならば
そこには 至福がある
もしあなたが
愛と呼ばれる その全き死の中に はいって行ったならば
そこには 悟りが,サマーディがある



(24)終わり・・・(25)へ 続く