05
( あなたがたは 沈黙をつくりだすことができる )
家の中で 扉をすっかり閉めて坐り
マラを、数珠(じゅず)を手にとって その珠を くりつづける。
一種の沈黙が やって来る……
が、それは 真の沈黙ではない。
それは ちょうど、これで遊ぶようにと オモチャを与えられた子供のようなものだ。
子供は そのオモチャで遊びだし
その遊びに 夢中になる、 ん?
そうなったら その子供は いたずらはしなくなる。
それで 親たちは そのオモチャを
あまり いたずらをさせないための
策略(トリック)として 使うのだ。
子供は 部屋の一隅に坐って 遊びつづける。
そして親たちは、子供に しょっちゅう邪魔されることなく 自分の仕事を進めることができる。
しかし
これは 子供がいたずらを超越した ということではない。
その いたずらっ気は オモチャの方向に そらされたというだけのこと。
いたずらは 依然そこに在る
子供は そこにいる。
遅かれ早かれ
子供は オモチャに うんざりし 退屈してくるだろう。
そしてオモチャは 放り出され、いたずらが戻ってくる。
数珠(じゅず)は 老人のオモチャだ。
ちょうど あなたがたが 子供にオモチャを与えるように
子供たちは 老人たちに 数珠を与える。
彼らが あまりいたずらをしないように と。
すると彼らは 部屋の一隅に坐って 珠をくりつづける。
だが 彼らだって うんざりする。
夢中になりはするものの、またうんざりもするのだ。
そうなったら 彼らは 数珠を変えていく。
彼らは 別の導師(マスター)のところへ行って、また別の マントラを求める。
というのも 古いマントラは 今では効力がないからだ。
初めのうちは、 と 彼らは言う、効きめもありました……
たくさんの人たちが 私のところに来て こう言う。
私たちは或るマントラを やってきたのですが
最初のうちは それは助けになっていました。
でも 今ではもうそれは 助けてはくれません。
今では 私たちは 何も感じないのです。
それは退屈な仕事と なってしまいました……
義務として やるだけで、愛は すでに消えているのです。
もし やらないと、何かを取り逃がしているような 感じになるし、かといって やっても 何も得られません……
これこそ 中毒 ということの意味。
それをやったとしても 何ひとつ得られるものはないが
やらないと、 何かが 欠けているような感じになる ーー
これこそ 喫煙家の いだく感じだ。
煙草を すっても 何が得られるものでもないことを 彼らは知っている。
愚かしいこと、馬鹿げたことを しているのだ と。
煙を 吸いこんでは また 吐き出す……
しかし、それもまた 数珠(じゅず)の ようなもの。
煙を 吸い込んで また 吐き出す……
吸いこみ、 吐き出し、 吸いこみ、 吐き出し ーー
それは 数珠をつまぐるのと 同じことになる。
あなたは数珠をくりつづける。
ふむ?
それを マントラに することもできるね。
煙を吸いこみながら ラームと 言うがいい。
吐き出しながら また ラーム
それは 一つの数珠になる !
つづけてくり返すことが できるものは どんなものでもマントラの一つとなる。
マントラとは、或る言葉、 或る音声、 何でもいいが、それを くり返すという意味だ。
マントラは 人を夢中にならせるのに役に立つ。
それは オモチャ。
しばらくのあいだは いたずらが止まって あなたはいい気分になる。
あまりに 夢中になっているので 頭(マインド)が 機能できなくなっているのだ。
これは 強制された沈黙 ーー
これは 病的なもの、善いものではない。
これは 否定的(ネガティブ)だ、肯定的(ポジティブ)ではない。
この沈黙は 墓場で起こる沈黙と同じ
死の 沈黙だ ーー
しかし
私が 語ろうとしている沈黙は
全面的に 質的に ちがう沈黙だ。
それは いたずらの変形ではない
それは 無理に従事していることではない。
それは マントラ催眠術ではない。
それは
あなたが 受け身で敏感で あるとき
何も 為すことなく
ーー数珠を動かすことさえせずにーー
全面的(トータル)に 受け身でいながら、しかも 敏感でいるとき
あなたに 起 こ っ て く る 沈 黙 だ 。
憶えていなさい。
受け身は 眠りになりうることもあるのだから。
だからこそ 私は “ 敏感 ” という言葉を 強調している。
なぜなら あなたがたは 受け身になって眠りこむことも ありうるからだ。
眠りは 瞑想ではない。
だから、眠りの質の一つ、つまり 受け身という質は そこにあるとしても
もう一つの質、目覚めている、敏感にしている という質も そこになければならない。
眠っているときのように リラックスして
目覚めているときのように 敏感であること ーー
眠りの中にある 或る一つの要素、無意識という面は 入りこんではならない。
それは そこに あってはならない。
なぜなら
瞑想とは 無意識ではありえないものだ からだ。
それから
目覚めている状態の中の 或る一つの要素、何かに従事している という要素も また 入ってきてはならない。
もし 何かに従事していたら、そのときには 頭(マインド)が動いていることになるからだ。
あなたは 思考の中に 閉じこめられることになる。
目覚めているとき、そこには 二つの面がある。
つまり 敏感になっている と いうことと
何かに 囚われ 従事している ということだ。
眠っているあいだには この二つの面がある。
つまり 受け身である ということと
無意識に なっているということだ。
目覚めの中から 一つ、眠りの中から 一つ
受け身でいることと 敏感でいることーー
この 二つが 瞑想をもたらす。
もし あなたが 残りの二つの要素、何かに従事することと 無意識でいること を 取り入れたら、あなたは 気が狂う。
これら 二つの要素こそ、何かにとらわれ従事して いながら、かつ無意識でいる ということこそ、狂気を生みだすもの、狂人を 生みだすものだ !
が、受け身と 敏感さは 瞑想的な人を、覚者(ブッダ)を 生みだす。
あなたがたは これら四つの要素 すべてをもっている。
そのうちの 二つを混ぜれば あなたは狂う。
残りの 二つを混ぜれば あなたは瞑想的になる。
このことを 憶えているがいい ーー
「05」おわり…「06」へ つづく
『マイ ウエイ』⚪流れ行く白雲の道
バグワン・シュリ・ラジニーシ
🔘質疑応答集
話者 バグワン・シュリ・ラジニーシ
翻訳 マ・アナンド・ナルタン
発行者 スワミ・アナンド・シャンタン
発行 RPJ
発売 株式会社 めるくまーる社