saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第15章「観ること: 全ての技法の基礎」(09)

(09)

( マインドとは、あなたの過去、あなたの 記憶のことだ。

その過去が、現在という瞬間に 入ってきた )

 

そしてあなたは、未経験の事実を 壊してしまった。

すると それは 歪められてしまう。

もはや そこに花は ない。

花それ自体の事実は、もう そこにはない。

それは あなたに汚され、壊されてしまった。

あなたの過去が 事実と感覚のあいだに入ってきた。

あなたは解釈した、それは考えだ。

考える ということは 過去を現在という瞬間の中に 持ってくることだ。

だから、考えることは 決してあなたを 真実に導けない。

 

真実とは 汚されていないものであり 

その まったくの処女性に 向かい合うべきものだ。

自分の過去を その中に持ち込むことで あなたは それを壊してしまう。

それは 一種の解釈であり、事実を はっきり認識したわけではない。

あなたは それを 破壊してしまった。

その純粋さは 失われた。

考えるとは、あなたの過去を 現在という瞬間に持ち込むことだ。

 

そして、観るとは、過去がないこと、ただ現在に いること、過去を 持ち込まないことだ。

観ることは 受け身だ。

あなたは 何もしない −−− あなたは 在る ! 

単純に、 あなたは そこに 在る。

ただ、 あなただけが 在る。

 

花が そこに在る、あなたが臨在している −−− 

すると、そこには 観る という関係が存在する。

 

花が そこにあり、あなたではなく、あなたの過去 全てが そこにあれば、それは 考える という関係だ。

 

そこで、考える ことから始めよう。

考える とは、一体 どういうことなのか ? 

それは、過去を 現在という瞬間に 持ち込むことだ。

そうすれば、あなたは 現在という瞬間を 見逃す −−− 完全に それを 見逃した ! 

過去が現在という瞬間に 浸透してきたら、あなたは 対象を見逃す。

あなたが「この花は きれいだ」と言えば、実際、それは 過去になる。

あなたが「この花は きれいだ」と言う時、それは 過去の体験だ。

あなたは それを知っていて、判断した。

 

花が そこに在り、あなたが そこに在るとき 

「この花は きれいだ」と言うことさえ不可能だ。

あなたは現在の瞬間において、どんな判断も 打ち出すことはできない。

あらゆる 判断、言い訳は 過去のものだ。

 

 

(09)終わり(10)へ 続く