saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第10章 「 完全な〈空〉」 第二の質問 (03)

(… 単独 (アロンネス) とはあなたの 永遠なる存在の 現前(プレゼンス) だ )

 

あなたは「ただ〈無〉だけが あります」と 言う

 

いいや、 もし ただ〈無〉だけがあるなら、そのときには問題など ない

あるのは〈無〉だけで、それを 知り、 感じる者は いっさいないとしたら

そのときには 問題など ない

そうなったら、どこから 疑問が湧いてくる ? 

いったい どうやって疑う者が 現われる ? 

 

いいや、 あなた が そこにいる

その〈無〉は にせものだ

なぜなら、 あなたが そこに いるからだ

それがどうして〈無〉で ありえよう ? 

それは あなたの 観念にすぎない

 

これは、私が子供の頃に、私の家族のなかでよく 起こったことだ

私は 非常に怠け者だった

ーーー今でも そうだがーーー

私が あまりにも怠惰で、怠け者だったので、私の家族は 私にすっかり 失望していた

だんだん、彼らは 私のことを忘れはじめた

私は まったく何もしようとは しなかったからだ

私はよく 隅っこに坐っていた

眼を 閉じていようと開けていようと、とにかく ただ坐っていたものだった

が、彼らにとっては、私は まったく不在だったから

だんだん彼らは私を 忘れがちに なっていった

 

ときどき、こういうことがあった

母が 市場から何かーーー野菜か何かーーーを 必要としていた

私は 母の前に 坐っていた

すると彼女は「ここには誰もいないようね」と言った

母は 私の前に坐って話かけた

「ここには誰もいないと見えるわね

私は、市場へ行って野菜を買ってきてくれる人がほしいのよ」

私は母の前で坐っていたが、母は「ここには誰もいない」と言うのだった

 

私は 誰でもない者と みなされていた

たとえ野良犬が 家の中に入ってきても、私は それをそのまま放っておいたものだった

門のところに坐っていると、野良犬が入ってきたが、私は 見守る・・・

すると母が 飛び出して来て、言った

「ここには、 この犬を追っ払うひとは 誰もいないのね」

そして、私は そこに坐っていたーーー

 

だんだん 彼らは、私が いないかのようにいることを 受けいれるようになった

しかし、それは たいしたちがいではない

私は そこにいた

私は、犬が 入ってくるのを見ていたし、彼らの言葉も聞いていた

私は、自分が母のために 市場へ行って野菜を買えることも 知っていた

私は「ここには誰もいない」と 言いつづける母の その考えを よく笑ったものだった

それが あなたに 起こっていることだ

 あ な た が そこにいる

なのに、あなたは 何もない と言う

あなたは 自分自身を 忘れている

あなたは 自分自身に 気づいていない

さもなければ、 あ な た は そこに いる

もしそこに あなたが いないとすれば、 何もない と 言っているのは 誰だろう ? 

 

あなたが そこに いないときには〈無〉がある、そのときには 純粋な〈無〉が ある

その純粋性のなかに ニルヴァーナが、〈光明〉がある

それは 在るべき 最も価値のある所、在るべき 最も広大な空間だ

 

それは あらゆる人が 探している空間だ

なぜならそれは 限りなく、無限だからだ

そして その純粋性は 完全だ

それは どんなものにも 汚されていない

 あ な た でさえ そこには いない

そこに 光は ある

そこに 意識はある

だが、「私」は いっさい ない

「私」は 氷のようなものだ、凍った意識だ

意識は 解けた氷のようなもので、流動的だ

もっと正しく言えば、その氷さえ 蒸発して、見えなくなっている

 

また、あなたは言う

「そして、それは幻想だと 気づくことが なぜこんなに苦痛なのでしょうか ?」

他者、 それが苦痛なのは「私」が 死にかけているからだ

他者を 幻想として 認識すること、愛が幻想だと 気づくことは 非常に つらい

そのときには「私」が 死にはじめているからだ

もし「あなた」を 落としたら、「私」も 在りえない

そして、 あなたは その「私」を 落とすことの すばらしさを 知らない

 

あなたは問う

「もしそれが自然ならーーーもし 独りであることこそ 根本的で、自分の存在の 本質そのものだとしたらーーーそもそも どうして、ひとつになる という幻想、恋に落ちて永遠に誰かと愛し合う という幻想が 起こりうるのでしょうか ? 」

 

それは ただこのゆえに 生じた

つまり、 独りであることが 根本的、本質的で あるがゆえにーーー

 

ヒンドゥー教聖典は、神は独りだった、 と言う

ちょっと考えるがいい、思い浮かべるがいい

永遠に 独り、 独り、 独りでいる 神のことをーーー

彼は その〈独りであること〉に 飽きてきた

それは 単調だった

彼は ちょっと 遊んでみたくなった

彼は 他者を創り出して、「かくれんぼ」を 始めた

 

あなたが その遊びに 疲れたとき

あなたが その遊びに 飽きたとき

あなたは 再び ブッダになる

あなたは再び 玩具を 捨てる

その玩具は あなたによって 創り出された

その価値は あなたによって 想像された ものだ

あなたが それを価値づけ したのだ

あなたが その価値を 引っこめる瞬間、 それは消える

あなたは 再び 独りだ

 

この ヒンドゥー教の考え方は きわめて価値が ある、意義深い

それは 神は独りだった と 言う

それが単調に なったので、彼は 世界を、他者を 創り出した

ただ ちょっと他者と おしゃべりをするために、ちょっと対話をするためにーーー

 

それから また再び 他者に疲れ、退屈して、 自分のなかへ消える

再び自分の〈無〉のなかに 戻り、神になる

 

あなた方は みな神々だ、自分自身を だましている 神々だ

それは あなたの 選択だ

そういう在り方を 選ばなくなる日、あなたは 自由になる

それは あなたの 夢だ

〈独りである〉ために

〈独りである〉ことが あなたの存在の 本質であるために

他者が 創り出された

 

 

(03)終わり・・・(04)へ 続く