saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第十章 東洋と西洋を超えて (第六の質問) (03)

昔、あるジャイナ教徒の家族のところに 滞在したことがあった。

九十歳になる老人が、私のところに来て足に触れ、こう言った、「あなたは、二十五番目の ティルタンカラと言っても良いお方です」

私は、「待ってください。私を しっかり見てください」と 言った。

彼は、「どういう意味でしょう ?」と 言った。

私は、「ただ 見ればいいのです。そうでないと、さっきの言葉を撤回しなくてはならなくなりますよ」と 言った。

老人は 少し当惑した。
黄昏(たそがれ)どきで、陽が 沈み、夜が 訪れようとしていた。
すると 女性 ーー 老人の妻が 入って来て、「お食事の 用意ができました」と 言った。

「待ってください」と 私は言った。

老人は「なんですって ? もう太陽は 地平線の下に沈んでいるのですよ。 食事をなさるつもりですか」と言った。

「そうです。 奥さんには待ってもらうように言っているのです。 私は お風呂に入らなければなりません。 それから 食事をいただくつもりです」

彼は立ち上がって、「申し訳ありませんが、さっきの言葉を撤回しなければなりません。 あなたの おっしゃる通りでした。 あなたは 夜に 食べられるのですか。 そんなことも ご存知ないなんて、一体どういう覚者なのですか」と 言った。


彼は、光明を得た人間は 夜に食べられない という基準を持っている。
これは ジャイナ教の 基準だ。

基準を持っている人のところへ行けば、その人は、私が それに 適(かな)っているかいないか、その窓を通して見るだろう。
だが私は、あなたの期待を 満たすために ここにいるのではない。

いかなる基準も 持っていないから、私は 常に 正しい。
それ以外には ありようがない。
あなたには、私に 矛盾を見つけることすらできない。
なぜなら、私が この瞬間まで 何を語ったにしても、それと 私は 無関係だからだ。
語ったことなど 全然気にしない。
気にするのは 愚かな学者たちであって、私には済んでしまったことだ !
何かを 語るとき、私は 語ることを楽しむ。
それだけだ。
それ以上のことに 関心はない。
何かをするとき、私は それを 限りなく楽しむ。
それ以上のことに関心はない。

「(質) ところが、あなたを見ると 失敗という問題はないのです。 無我であることは完全であるということですから」。

どうして 無我であることが 完全なのかね ?
まさに その完全という考えこそ、自我のものだ。

無我は 完全ではあり得ない。
無我とは 自我の不在に他ならない。
不在は 不完全であり得るだろうか。
あり得ない。
ならば、不在が 完全である ということも あり得ない。

不在は 不在に過ぎない。
自我は 完全であり得るし、不完全でも あり得る。
だが、無我は どちらも あり得ない。
完全な人など いやしない。


自我のゲームは すべて馬鹿らしいと 理解したとき、自我は 消える。
あとには 何も残らない。
全体性は あるが、完全さは ない。

古い宗教は 皆、完全志向だった。
私が 教えているのは、すべて 全体志向だ。
私は 全体であれ と言うが、完全であれとは 言わない。
その違いは とてつもなく 大きい。

全体であれ と言うときには、矛盾することも 認めている。

そのときには 徹底的に矛盾すればいい。

全体的であれ と言うとき、私は あなたにゴール、基準、理想を 与えない。

あなたに 悩みを持ってほしくない。

私が望むのは ただ、この瞬間に、どこにいようと、何を していようと、あなたが 何者であろうとも、全体的でありなさい ということだ。
悲しかったら 全面的に 悲しみなさい、あなたは 全体だ。
腹が立ったら、全面的に 腹を立てなさい。
その中に 没入しなさい。

完全という 考えは、まったく異なる 反対のものだ。
異なるだけでなく 正反対だ。
完全主義者は、「けっして腹を立ててはいけない、いつも慈悲深くありなさい。 けっして悲しんでは いけない、いつも幸せでいなさい」と 言う。
一方の極に 反対し、もう一方の 極を選ぶ。

全体性においては、両方の極を 受け入れる。
低いものと 高いもの、上と下とを。
全体性は 全面的ということだ。

またあなたは、自我の ばかばかしさを、余すところなく 理解しなければならない。
そうでないと、自我は 裏口から入って来かねない。
もし私が「さあ、完全な無我の状態になりなさい」と 言ったら、あなたは 自分より自我のない人は いないことを 証明しなければならなくなるだろう。



(03)終わり・・・(04)へ 続く