saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第八章「濃紫に染められた野辺」2️⃣

(…禅の詩人たちや スーフィーの神秘家たち、そしてヒンドゥの聖者たちは、みんな 詩の言語で話してきた。)


そして、たとえ仏陀やマハヴィーラや イエスが 詩の言葉で話さないとしても、その言葉の内には 詩情がある。
人は ある種の詩的な質のものを 彼らの言葉の内に感じとる。
彼らの言葉が 散文的であるのは表面だけだ。
かたちは散文的でも、その背後の精神(スピリット)は 詩の精神だ。


実際、解脱に達した人は、そう語る以外 語りようがない。
もし 普通の散文体で 語らなければならないなら そのように語ることもできる。

だが、それでも 詩情を避けることはできない。
詩は 表面のすぐ下に潜んでいる。
もしあなたに 少しでも洞察力があったら、その詩情が わかるだろう。

それは活き活きと 生気に満ちてそこに在る。


宗教と 詩は 同じ言語域の内にある。
使う言葉は ちがうが、どこかで 出会う点をもっている。
そして、この出会いの点こそ、この逸話の主題になっている。



ひとりの詩人が ひとりの禅師に 会いにくる。

この詩人は 非常に 偉大な詩人だったにちがいない。
なぜなら、
最も深遠なところにまで達した 偉大な詩人たちだけが、神秘家との 出会いの基盤を もっているからだ。
詩人だからといって 誰でもそれをもてるとは限らない。

詩が 究極の極みにまで至ったところに、神秘の世界の 第一歩がある。
詩の世界が 絶頂に達して 終焉(シュウエン)するところ、その頂点に、そのグリシャンカールに、そのエヴェレスト(最高の頂き)に 辿りついたところに、神秘の世界の 寺院への第一歩がある。

最も高遠な詩は、一番低いところの〈神秘〉だともいえる。
そこが 出会いの地点になる。

だから、最も深遠な詩人たちだけが、禅師に このように言わせるほどの 高みをかち得るのだ。


“ そなた 多くを学んできたものよ------ ”


さて、この逸話のなかに入っていこう。

連歌師であり 仏教の帰依者でもある蜷川新左衛門は
名高い 一休禅師に入門を望み 京は紫野の大徳寺を訪れた ”


これは私が いつも感じてきたことだが、詩人のなかでも 最も偉大な詩人たちは、宗教を 避けて通ることはできない。
宗教的な世界に入らざるをえない。
というのは、詩は ある点にまでは引っぱっていくが、そこを越えると 宗教の世界になるからだ。


詩人として在ることに 徹底すれば、人は 宗教的になっていく。

詩の世界の最果てまで 旅していなかったら、詩人は 詩人でありつづけることはできる。
だから、ちっぽけな詩人たち だけは、詩人としてとどまる。が、偉大な詩人たちは、宗教の世界に必ず 入っていく。
これは 避けられないことだ。

なぜなら 詩が終わり、宗教が始まる、そういう地点が来るからだ。
その限界点にまで至ったら、それから どこへ行く?


そこに至った瞬間、詩は、自身を 宗教に転向させる。
人は それに従わざるをえない。


同じことが論理家や 科学者たちにも起こる。
だが、その起こり方は ちょっと違う。
科学者にも、一貫して どんどん進みつづけ 徹底していくと、ある瞬間が やってくる。

道路が もうどこにも向かっていないような、袋小路に入ったような感じになる。
そこには 奈落が口を開けていて、前に進む道はない。


詩人の場合は これとは違う。
前に道が あることはあるのだが、それはもう 詩情の道ではない。
詩人の道は、自動的に 宗教世界の道に変身する。

しかし、科学者や 理論家、哲学者には、それは まったく異なった起こり方をする。
彼らは 行きづまり、道路は ただそこで終わるだけになる。
それ以上 もうどこにも行けない。
道が ないのだから。
そこは 崖っぷち、奈落だ。


アルバート-アインシュタインの晩年に このことが起こった。
これは 最も偉大な人たちにしか 起こりえない。

同じ道を 歩いたとしても、 ちっぽけなマインドは けっして袋小路にまでは 至らない。
道の途中で死んでいく。
その道路が どこかへ連れていってくれる と信じながら死んでいく。
道が まだ前に ずっとつづいて見えるからだ。


変身は、偉大な人たちにだけ起こる。
アインシュタインは その晩年に至って、自分の 一生は 無駄だったと感じ始めた。


ある人が 彼に訊いた。
「もし生まれかわるとしたら あなたは 何になりたいですか」
アインシュタインは答えた。
「けっして科学者にはならない。
配管工のほうがましだ。
もう二度と 科学者はごめんだね。
終わったんだ!」


その生涯の最後になって、彼は 神について 考え始める。
神ーーー生命の 究極的な意味、神秘のなかの神秘について 考えだしたのだ。
そして言っている。
「存在の神秘に 深く浸透していけばいくほど、私は ますます強く、その神秘は 永遠に終わりがなく、無限だと 感じるようになった。
知れば知るほど、私は 自分の知識について 確信がもてなくなった」


〈神秘〉は 広大無辺だ。
尽きるところを知らない。
これこそ 神の概念とは何であるかを語るものだ。
神秘的なるもの、広大なるもの、尽きるところを知らないものーーー


あなたは 知るということができるから、もっともっと 知っていく。
が、それでもなお、それは〈未知〉として とどまる。


あなたは その内側に入っていく。
内へ内へと 入っていく。
それでも あなたは 縁(フチ)を 動き回っているにすぎない。
そして、 内側に落ちこみつづけても そこに底などない。
あなたは、〈神秘〉の中心には けっして行き着くことはできない。

あなたが「私は全てを知った」と 言えるような瞬間は けっしてこない。
誰も そんなことを言ったことはない。
愚か者を除いては。

賢い人は ますます自分の無知を感じていく。
愚かな人々だけが 少しばかりのものを あっちこっちから寄せ集め、それで自分たちが 知っていると 思いこむ。


愚か者だけが 知る人であり、知識を主張する。


3️⃣へ つづく