saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「内なる宇宙の発見」by OSHO

(4️⃣)
Pp 247 ー 249
(…「この家は非現実だ」というのは方便だ。「この家が存在しない」というわけではない。)


バークリーは「全世界は たんなる夢だ」と唱えた。
ある日の朝、彼は ジョンソン博士と 一緒に散歩していた。
ジョンソン博士は きわめつけの現実主義者だった。

バークリーは言った
「私の理論を聞いたことがあるかい。
今、それを研究しているところだ。

思うに、全世界は非現実だ。
世界が現実だとは証明できない。
世界が現実だと言う人々は、それを 証明しなくてはならない。
私に言わせれば、世界は非現実だーーーただの夢のようなものだ」


ジョンソンは哲学者ではなかったが、非常に機敏な論理的精神を持っていた。
ふたりは路上にいたーーー朝、ひっそりした通りを歩いていた。

ジョンソンは 石をひとつ拾って バークリーの脚を打った。
血が流れ、バークリーは 悲鳴をあげた。

ジョンソンは言った
「なぜ 悲鳴をあげるんだ。
この石は ただの夢じゃなかったのか。
口では どう言おうと、君はこの石が 現実だと思っている。
君の場合、言っていることと していることが違っているーーー矛盾している。
もし自分の家が ただの夢だったら、いったいどこへ帰るのだ。
この散歩が終わったら、いったいどこへ帰るつもりだ。
自分の妻が ただの夢だったら、もう二度と会えなくなるじゃないか」


現実主義者の理屈は、いつもこういうものだった。

だが シャンカラに対しては そう言うわけにはいかない。彼の言葉は 哲学説ではない。

その言葉は 現実については なにも語っていない。
宇宙について なにも提唱していない。

そうではなく、それは あなたの マインドを変える 方便だ。
技法だ。

それによって、あなたの固定的な 根本姿勢が 変わり、世界に対する 見方が違ってくるーーーまるで違ってくる。


インド思想にとっては、これこそが問題、絶えざる問題だ。

インド思想にとっては、すべてが ただ瞑想のための方便だ。

その真偽は どうでもいい。
大事なのは、それが 人間の変容に 役立つか どうかだ。


これが西洋的精神との決定的な違いだ。
西洋人が 理論を提唱するとき、その関心は、それが真実か どうか、それが 論理的に証明可能か どうかにある。

インドの場合は、なにかを提唱するとき、その真実性は どうでもいい。

重要なのは その有用性だ。

重要なのは 人間のマインドを 変容するその効力、その可能性だ。

それは 真実ではないかもしれない。
実際は その どちらでもない。

ただの 方便だ。


(5️⃣) へ 続く