saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

質疑応答「竜巻の中心……」by OSHO

「竜巻の中心……」02

 

( これこそ “無努力の努力” という あの禅の手法(テクニック)の意味することだ。

禅では 矛盾した表現をよく使う。

無努力の努力、門なき門、道なき道……)

 

禅は 矛盾語を使うことによって 即座にあなた方に

ものごとのプロセス(過程)は 弁証法的であって線状ではないということを暗示する。

反対のものは 否定されるのではなく 吸収されるべきだ。

対極は取り残されるべきではない。

それは使われなければならぬもの。

取り残されたら、それは あなたにとって重荷になる。

取り残されたら、それは あなたに まとわりつく。

使われなかったら

あなたは 多くを取り逃すことになる。

 そのエネルギーは転換され利用されうる。

そうなったら、それを使うことになったら

あなたはより活気を帯び、より生き生きとする。

反対のものは 吸収されなければならない。

そうなってはじめて、プロセスは 弁証法的になる。

 

 無努力というのは 何もしないこと

非活動―――アカルマを意味する。

努力とは 多くを為すこと

活動―――カルマを意味する。

 両方とも なくてはならぬものだ。

 

 多くを為すがいい……、が

 行 為 者 に なってはならない。

それができたら あなたは 両方とも達成できる。

世間の中を 動くがいい……、が

世間の 一部にならないこと。

世間の中で 生きるがいい……、が

世間を あなたの中で 生きさせないこと。

それができたら そのときには、矛盾は吸収されている。

そうなったら あなたは何一つ拒まず

何一つ 否定しない―――

〈神〉全体が受け入れられたのだ。

 

これこそ私がしていることだ―――

 

ダイナミック瞑想とは 一つの矛盾だ。

“ダイナミック” とは 努力を意味する

多くの努力、この上ない努力を……

そして

“瞑想” とは 沈黙、静寂だ。

努力は いっさい無く、活動も まったく無い……

 これは、“弁証法的瞑想” と呼んでもかまわない。

エネルギーが 全部 一つの動きとなるまで活動的になること。

あなたの内部(なか)で 静寂なままでいるエネルギーなど いっさいなくなるように……

エネルギー全体が奮い起こされ、取り残される部分などないように……

エネルギーの 今まで凍りついていた部分が溶けて 流れはじめる―――

あなたは 今や 冷 凍 品 ではなくなる。

あなたは ダイナミック(力強く動的)になる。

あなたは もう 物体というより エネルギーのようなものだ。

あなたは もう物質ではなく、 電 気 に なっている―――

エネルギー全体が、はたらき、活動し、動くようにもっていきなさい。

  あらゆるものが動いているとき

あなたは 一つの 竜巻となる――― ! 

そうなったら 注意することだ。

心することを 忘れないように……

この竜巻の中で、あなたは突然

完全な静寂さを保っている 中心を見出すだろう。

これが “竜巻の中心” だ ! 

 こ れ が あ な た だ 。

自らの神性の内に、神として在る あなた自身だ―――

 

 あなたの まわり全体に活動がある。

あなたのからだは 勢いのある 一つの竜巻になり

すべてが早く、ますます早く動いてゆく。

凍りついていた部分は溶け、あなたは 流れはじめる。

あなたは 火山だ !    火だ !    電気だ ! 

 が、その中心には

これらの動きすべての 真ん中には

不動の地点、静かに沈黙している 点が在る。

この静止点は 創られるものではない。

それは そこに在るのだ――― ! 

あなたが それに関して どうこうするものではない。

それは 常に 変わらず そこに在りつづけた。

それは あなたの存在そのもの

あなたの存在の 基盤そのもの。

 

 これこそヒンドゥの人たちがアートマ、霊魂と呼んできたものだ―――

それは そこに 在る

しかし、あなたの肉体が

あなたの物質的な存在が 十分に活動的にならないかぎり

あなたは それに気づくことはない。

全面的な活動によって

全面的に 非活動的なものが 明らかになる。

活動が コントラスト(対象)を 生み出す。

それは 黒板となる……、黒板となって

その上の 白い点を映しだす。

 

 白壁の上では 白い点は 見えない。

黒板の上なら 白い点も 見えてくる。

だから

あなたのからだが活動的な、ダイナミックな 一つの動きとなったとき

突如として あなたは

静かな、完全に静止した点に

 動 の世界の 不動の中心に 気がつくようになる。

 これが  無 努 力 だ。

それのために 努力は いっさい為されない。

どんな努力も 必要ではない。

それは ただ顕されるだけだ。

周辺の部分での 努力はあるが

中心の部分においては 努力は いっさい無い。

周辺の部分の 動き

中心における 静止―――

周辺での活動

中心における絶対的な非活動―――

 そして この二つのあいだ……

 

 これは いささかむつかしいことかもしれない。

というのも、あなたはヒンドゥ教徒が アートマ(霊魂)と呼んだ その中心で 自分の存在確認をしてしまうかもしれないからだ。

もし、その静止している中心と 自分を同化してしまったら、あなたは また 二つのうちの一つを 選んだことになる。

またもや あなたは 一つを選び、もう一つを 拒否してしまったのだ――― ! 

 

 

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